インスリンを打ちながら
王貞治監督にとって初のリーグ優勝を飾った
巨人は、時代の節目を迎えようとしていた。昭和の時代が終わりを告げようとしていた1987年オフのことだ。
ペナントレースで13勝を挙げて、
西武との日本シリーズにも登板した
江川卓が突如として現役を引退。この江川をライバル視してエースの座を争っていた
西本聖は2年連続で2ケタ勝利に届かず、江川が去ったことで目標を見失い、“燃え尽き症候群”のように失速していく。江川、西本と“先発三本柱”を形成した
定岡正二は85年オフにトレードを拒否、そのまま引退していた。87年オフにはリリーバーの
サンチェも退団。入れ替わるように来日したのがガリクソンだった。
当時のプロ野球でも、まさに頭ひとつ抜けた身長190センチの長身から投げ下ろす投球は最速140キロほどだったが、それ以上に威力が感じられた。王監督は「気合がこもっているから打たれない。みんなにも、あの気合を見習ってほしい」と絶賛。1型糖尿病を患っていて、毎朝、自分で左手の指先から血を抜き糖の量を検査して、やはり自分で注射器を持って腹にインスリン注射を打っていたという。それでも、メジャー時代は中4日で投げていたというスタミナも健在で、巨人でも“働き馬”の異名どおりの奮闘。マウンドはもちろん、練習でも手を抜かず、メジャーの実績を鼻にかけるようなこともなかった。
来日1年目、メジャーの実績どおりの実力を発揮して14勝をマーク
もちろん、気合とスタミナだけで打たれなかったわけではない。抜群の制球力でストライクゾーンの四隅を丁寧に突いて、そこに変化球を組み合わせる頭脳派でもあった。迎えた88年は開幕2戦目となる
ヤクルト戦で初先発初完投勝利。その勢いのままリーグ最多14完投、チーム最多の14勝を挙げて、江川の抜けた穴を完璧に埋めてみせた。
だが、「日本の野球が分かって、勝ち星も増えると思う。20勝はできるんじゃないか」と語った翌89年だったが、3月に左ヒザ半月板の損傷が発覚して離脱するアクシデントで出遅れ、最終的には7勝に終わってオフに退団している。わずか2年の在籍、41試合の登板で21勝だったが、それ以上の印象を残す助っ人だ。
文=犬企画マンホール 写真=BBM