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プロ1年目物語

【プロ1年目物語】メディア露出量は歴代新人最多!? 記録より記憶にのこる黄金新人・長嶋一茂

 

どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。

一番キツかったのは「取材です」


1988年、ヤクルトに入団。背番号はもちろん『3』だ


「ちょっと待ってください!! こういうのはプライバシーの侵害じゃあないんですか!!」

 荷物を積んだワゴンの車の中をのぞき込む記者たちに向かって、22歳の長嶋一茂は珍しく声を荒げて抗議をした。1988年2月5日、立教大の卒業試験を終え、長嶋が埼玉県戸田市のヤクルト合宿所に荷物を運び込むだけで、50人を超す報道陣が駆けつけたのだ。前年のドラフト会議で、大洋と1位競合しながらも交渉権を獲得したヤクルト球団は、あまりの報道の過熱ぶりから金の卵を守ろうと、「取材は共同会見に限る。指定区域外からの写真撮影はダメ。雑談、会話も禁止」という異例の取材規制を打ち出す。

 父・茂雄は「親がベタベタ、ゴチャゴチャ表面に出たらみっともないですよ。星飛雄馬じゃあるまいし(笑)」とあえて放任主義を貫いたが、昭和最後の長嶋フィーバーは一茂が一軍のユマ・キャンプに合流しても続いた。週刊ベースボール1988年3月7日号には、巻頭グラビアで「ユマ発 カズシゲ密着グラフ」、さらには特派員現地リポート「長嶋一茂inユマ」も掲載。新聞・雑誌各社にキャンプ中、1回限りで5分間単独ミニ・インタビューが許可された。背番号3の新人選手だけをカメラが追いかける異常な状況に、一茂本人もキャンプで一番キツかったことを聞かれると、「取材です」と口にするほどだった。

入団会見には多くの報道陣が詰めかけた


 3月5日、神宮球場のロッテ戦で4回の守備からオープン戦初出場。もちろん週ベ1988年3月21日号でも、巻頭カラーでその様子を報じている。あまりのメディアの多さに、メジャー通算237本塁打の新外国人選手ダグ・デシンセイは、報道陣が元・大リーガーの自分を追いかけていると勘違いし、「これだけ注目されているのなら、オープン戦第1戦から先発三塁で出場しなければファンに申し訳ない。オレは出る」と首脳陣に直訴して、関根潤三監督を困らせるほどだった。一茂は初打席で初球を強振してレフト前にプロ初安打を放ち、フジテレビはこの様子を午後1時から全国放送。ラジオのニッポン放送でも、「歌謡曲ヒット速報」の中で「長嶋一茂初ヒット」を緊急中継するほどだった。翌5日、一茂に第1打席であわやホームランのセンターへの大飛球を打たれたロッテの園川一美は、「自分のことより、いつ長嶋が出てくるのか、そのほうが気になった」とコメントを残している。

プロデビューは巨人戦


 メディアやファンだけでなく、当時の長嶋茂雄に憧れて野球を始めた世代の現役選手たちも、その息子・一茂の一挙手一投足を見守った。3月25日、オープン戦の巨人戦が組まれていたが、関根監督の勧めもあり立大卒業式に出席。一茂のまわりを卒業生の父兄や、写真撮影を求める女子学生ら1000人以上が取り囲み、立大キャンパス内は一時騒然とする。

「一茂は将来ヤクルトの看板を背負って立つ男だから、一軍でエリート教育をする」という関根監督の方針で開幕一軍スタート。待望のプロデビューは4月9日、開幕2戦目の巨人戦だ。マウンド上に立つのは、メジャー100勝右腕のビル・ガリクソン。1988年当時、日本の好景気を象徴するかのように、多くの大物大リーガーたちが、アメリカの3倍ともいわれる高年俸に魅かれ続々と来日していた。1対4とヤクルトがリードされた8回二死走者なしの場面に代打で登場した一茂は、ファウルが二球続いたあと二ゴロに倒れる。それでも、開場したばかりの真っ白な屋根の東京ドームに集まった超満員の観客達からは、チームの垣根を超えて球場全体から盛大な拍手が送られた。そのあまりに異様な雰囲気に、ガリクソンは「エンペラー(天皇)がお見えになったのかと思った」という。日本テレビの放送席では、父・長嶋茂雄のデビュー相手だった金田正一が「さあ、やってみろ一茂! いけいけ〜ぃ!」なんて絶叫。同じく小さいころから一茂を知る巨人の王貞治監督は、一塁側ベンチから盟友の息子のプロ初打席を見届けた。

「勝負が決まった後だし、ファンのような気持ちで見てたよ。プレッシャーでガチガチだろうに、思い切って振れるのはたいしたもの。球界のためにも育ってほしいね」(週刊ベースボール1988年4月25日号)

プロ初安打はバックスクリーン弾


プロ初安打はガリクソンから放った本塁打だった


 開幕後しばらくイースタンの二軍戦で打席に立ったあと、一軍の試合に駆け付ける背番号3。待望のプロ初安打も巨人戦のガリクソンが相手だった。4月27日、6回裏一死、代打で登場した一茂は、カウント2-2からの5球目を神宮球場のバックスクリーンにホームランを叩き込んでみせるのだ。プロ初安打初本塁打の一発に神宮は、まるでヤクルトの優勝が決まったかのような大歓声に包まれる。週べ1988年5月16日号の巻頭グラビアでは、「昭和63年4月27日。そして歴史は始まった…」と特集が組まれ、プロ8打席目の初安打は父・茂雄の10打席目、初アーチにいたっては22打席目を大きく上回ると報じている。なお数年後、メジャー復帰したガリクソンは、巨人時代の同僚ウォーレン・クロマティから受けたインタビューで、長嶋茂雄が巨人監督に就任したと聞かされ、「知ってるよ、ナガシマなら。彼にプロ入り第1号ホームランを打たれた投手がビル・ガリクソンだよ。このオレだよ、神宮で、ね」と冗談めかして口にしている。

デシンセイ[左]との間には三塁起用の問題が勃発した


 翌30日の阪神戦、一茂目当てで試合開始3時間前には神宮球場周辺に1.5キロもの当日券を求める列ができたが、その期待に応えるように「七番・三塁」でプロ初のスタメン出場。左太ももにプロ初の死球を受け、三塁守備のボール回しの送球をポロリと落して場内をわかせた。そんなとどまることのない長嶋フィーバーの中で、チームはひとつ問題を抱えていた。全盛期はメジャー屈指の三塁守備と称された37歳のデシンセイの起用法である。開幕戦で東京ドーム公式戦第1号を放ち、翌日も二試合連続のアーチを記録したが、あくまで三塁に強いこだわりをみせるデシンセイは次第に微妙な立場に立たされてしまう。スタンドからは一茂見たさにブーイングが浴びせられ、右脇腹痛で一塁にまわればスタメン発表でヤクルトファンから拍手がわき起こる。ルーキーと比較されることに元・大リーガーのプライドも傷ついた。それでも、“デーやん”と呼ばれたジェントルマンは、一茂の先生役を買って出てエールをおくってみせる。

「(一茂は)将来はビッグスターになるはずだ。ボクだってメジャーに上がった当初は、いろいろ戸惑った。彼にも、最初から多くのことを期待するのは難しいと思う。いろんないい選手のプレーを見て、研究して頭にたたき込むことが大切だ。たとえばボクの守備を見ていて、自分はどこが違うのか、勉強してほしいね。彼がスターになるためなら、いくらでも協力したいと思っているんだから」(週刊ベースボール1988年5月9日号)

 そして、デシンセイは自らが特許を持つ、守備時に手首に付けるリスト・プロテクターを一茂にプレゼントするのだ。だが年齢的な衰えは隠せず、後半戦は一塁で起用され、8月25日には椎間板ヘルニアの治療のため帰国。この頃、チームは優勝争いから脱落して若手中心の起用法となり、8月は「三塁・長嶋」が14試合連続のスタメン出場と定着した。

出場試合数は1年目がキャリアハイ


父親同様、空振りが絵になった


 夏のジュニアオールスターでは“アジアの大砲”呂明賜(巨人)との共演も話題になった一茂だが、9月にはヤクルト本社の桑原潤社長が、長嶋茂雄の監督招聘を正式表明。父子鷹の実現に向けてマスコミの報道合戦が繰り広げられるが、10月11日に「機が熟せず、ということで丁重にお断り致しました」と茂雄サイドから辞退が発表された。

 最終的に一茂のプロ1年目の成績は、88試合で打率.203、4本塁打、22打点。大卒ルーキーとしては上々の滑り出しにも思えたが、その後伸び悩み、出場試合数や打点はこの年がキャリアハイとなった。それでも、日本中の注目を集めた長嶋フィーバーは凄まじく、1988年のヤクルトはチーム成績が5位にもかかわらず、“ホーナー旋風”に沸いた前年に続き、2年連続で観客動員200万人を突破する216万6000人を動員。ガリクソンからプロ初ホームランを打った4月27日19時59分の巨人戦ナイター中継のテレビ視聴率は、30.2%まで跳ね上がった。新聞、雑誌が年間を通して追いかけ、メディアへの露出量という意味では、間違いなく歴代の新人史上最多だっただろう。

 昭和最後のシーズンとなった1988年の長嶋一茂は、まさに記録より記憶に残る、ゴールデンルーキーだったのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
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