
2003年、渡米前の取材でメジャー球をガブリと食べる(?
広報・香坂、危機一髪!
いや……自分でも驚いたのだが、
松井秀喜について書き出したら止まらなくなった。今回のシリーズ(と言えばいいのか)が松井について書く2度目だが、これが5回目となってしまった。さらにさらに驚くのだが、まだ書きたいことが山のようにある……。
いずれにせよ、今回を一区切りにしたい。まずは前回書いた笑える話の2つ目だ。2000年、松井が第33回の日本プロスポーツ大賞を受賞したときの話である。
このシーズンオフでフリーエージェント権も獲得し、メジャー移籍も含めて世間の注目を集めていた松井。僕はこのときも松井の窓口として忙しく動いていた。この受賞に際し、あらかじめ送られてくるスケジュール表を見ると、内閣総理大臣杯と謳(うた)われており、ホテルでの受賞セレモニーを終えたあと、首相官邸内で首相と歓談と書いてあった。
そして、その贈呈者は当時の内閣総理大臣、森喜朗氏であった。森さんは松井の故郷である石川県能美郡根上町の出身で松井とは同郷の間柄だった。
スケジュール表には僕の名前がなく、僕はうっかり、その首相官邸までアテンドしなくてもよいと勝手に思っていて、松井に「ホテルのほうで待っているからな、頑張ってな」と、内心「ラッキー……」などとほくそ笑んでいた(笑)。
「オッチャン、なんで来ないの」(松井は時に僕をそう呼ぶ)と、松井は怪訝(けげん)そうな顔をするが、打ち合わせでもう一度話を伺うと、やはり僕も官邸までアテンドすることになっていた。ゴジラはニンマリしながら先輩の僕に対して「ふふふ、働きなさい!」と偉そうに言った(笑)。
官邸に着き、贈呈式を終えると地下にある別室に移り、森総理と歓談をする。総理は周りに何人もの総理補佐官を従えていた。めったにこんな場所には入れないので、僕もとても緊張していた。歓談をする前には松井とトイレに入ったが、僕が「オイ、まさか官邸のトイレで連れションするとはな」と言い、その恰好のまま2人でハハハと笑う。これも貴重な体験だ。

プロ1年目の1993年、後援会発足時の松井と森氏[左]
歓談では森総理は松井には大きな期待をしているという激励の言葉を掛け、心ばかりの贈り物と言って石製の大きな「虎」の置物を松井に贈呈した。歓談も終わり、官邸をあとにする。ここで官邸の玄関で松井の「マスコミの囲み取材」があった。松井が森総理から贈呈された「虎」の置物は風呂敷に包まれており、それを松井は一時的に僕に手渡し、「囲み取材」が終わるのを僕はその隣で待っていた。当然、耳だけは取材内容をチェックしている。これも広報の仕事だ。
ただ、オイ! ちょっと待て! この虎の置物、無茶苦茶重いぞ! そう言えば松井は両手でかなり、ガッチリ抱えるように持っていたなぁ……と思ったときはもう遅かった。ウーッ、重いよぉー。いつもよりも慎重に「囲み取材」の受け答えをする松井。実はこのころ、森総理の失言なるものがマスコミによく取り上げられることがあり、松井も丁寧な対応を心掛けていた。そんなこともあり、取材時間は長くなり、刻々と時は刻まれていく。
そして、僕の両腕がプルプルと震え出した……。やがて、うっすらとこめかみににじんだ汗がもみあげから頬へと伝わっていく。「ヤバイ、早く、終わってくれぇ」。祈る気持ちだ。もう、両腕の感覚がなくなりそうだ。「本当にヤバイ!」。もう限界だと思ったときに、帰りのハイヤーが僕の目の前に滑り込んできた! 「助かった!」。すぐに車内に置物を置いて、失態を回避することができた。
何とか虎の置物を手から落とすこともなく、迎えの車にゴジラと乗り込むと、僕はフゥーと大きく息を吐く。汗はワイシャツの首周りを濡らしている。そして、両腕はまだプルプルと震え、12月だというのに僕はハンカチで顔や首の汗をぬぐった。隣に座った松井はそんな僕を見て、「オッチャン、なに汗かいてんの?」と言うので「オマエなぁ、あの虎の置物、バカ重くて、もう腕がちぎれそうだったんだぞ、囲み取材も長いぞぉー」と言うと「そうそう、確かにあれは重かったね、しかしよくずっと持ってたねぇ」と感心し大声で笑った。そうそう、よくずっと持ってたねぇじゃねーよ! な、なんだ、コイツ、やけに楽しそうだな……、どうなることやらと必死だったのも知らないで……。
もちろん、囲み取材の内容チェックなど、全然できっこなかったのは言うまでもない(笑)。
ユニフォーム姿を見たい!
2002年オフ、松井はフリーエージェント権を行使しアメリカのメジャー・リーグでのプレーを希望する。シーズン50本のホームランと
巨人日本一を置き土産に、新たなステージへの挑戦を表明した。
02年10月31日、FA記者会見が行われる前日、時計の針は24時近くになるころだったろうか。携帯電話ではなく、家の電話が鳴った。球団本部の原沢敦広報部長(当時)からだ。
「松井君がFAを表明する。すまないが、今からすぐ出社してくれ」というものだった。
タクシーで神田錦町にある球団本部に飛んでいくと、役員ほか数名がおり、詳細について説明を受ける。
「会見は明日10時。場所は帝国ホテル。未明から会見場設営が始まるので、早朝には現地に行き、会見場など諸々の最終チェックを頼む。なお、松井君には承諾を取っているが、今後のマスコミの窓口は香坂にやってもらうということになっている。日米野球などもすべて帯同し、選手の保有期間まで対応してあげてくれ」
というものだった。
時刻はすでに明け方近くになっていたこともあり、僕はそのままオフィスで仮眠を取り、朝方5時ごろには帝国ホテルに入った。記者会見の準備は完了しており、特に慌ただしいものに追われることはなかった。大事なのは松井自身の行動予定などを事前に把握しておくことだ。
しかし、会見はすさまじい数の報道関係者。事態はバタバタだ。会見の設定人数から設営した会場はほぼいっぱいという大きな記者会見となり、異様な雰囲気でスタートした。

2002年オフ、FA会見で沈痛な表情を見せる松井
僕は松井とは事前に顔を合わせることはできず、定刻に始まった目の前の記者会見をじっと見つめているだけだった。会見が終わると殺気だったマスコミ陣が松井を追い掛ける。僕は速やかに松井を誘導し、あらかじめ用意していたハイヤーでホテルをあとにする。行き先は都内の松井の自宅だ。行き先を知らされていないマスコミは一斉に僕らの乗ったハイヤーを追跡した。カーチェイスだ。
松井の自宅に到着した。松井はさすがに疲れた様子だった。人生の大きな分岐点に立ち、大いに悩んだことは痛いほど分かった。僕は何も声を掛けられなかったが、松井が「俺、なんて言ってた?」とボソッと言うので、「しっかりとしゃべっていたぜ」と言うと「頭の中……、真っ白でさ、何しゃべってたか全然覚えてないんだよね……」。計り知れない葛藤が松井の心の中を駆け巡ったことを知らされる。
僕は「自分で勝ち取った権利じゃないか、自分の人生の決断をしっかり考えて決めたんだ。立派だよ」と、思ったことをそのまま言った。松井は「裏切り者と言われるかもしれないが……」という言葉を会見で口にした。何か悪いことでもしてしまったような暗い表情で会見に臨むなんて……。やっぱり松井は「気は優しくて、力持ち」という言葉がぴったりだと僕はしみじみ感じていた。
初めて松井と会った金沢での仮契約記者会見から、長いようで短いあっという間の10年間だった。松井のメジャー挑戦、その門出に際し、TBSラジオでジャイアンツナインのメッセージインタビューが行われた。TBSラジオの担当者が「ぜひ、香坂さんからも松井選手へ一言お願いします」と言うので僕は応じた。僕のはなむけの言葉は「ありとあらゆる苦闘と苦難が君に降りかかることを祈る。大丈夫、骨は俺が拾ってやるよ」(笑)だ。
松井は海を渡り、新天地ニューヨーク・
ヤンキースでその力を発揮し、ヤンキースに数々の勝利を呼び込み、多くのファンに感動を与え、その愛されるべき人間性も異国の地で今も称賛され続けている。
松井がユニフォームを脱いでから今年で、すでに9年がたった。松井を愛する多くのファンは、いや、松井のファンでなくても、松井のユニフォーム姿を再び日本で見たいと願っているだろう。もし再び松井がグラウンドに立つそのときが来たのなら、もちろん精いっぱい頑張ってほしい。僕がそのときに松井に掛ける言葉は、やはり「ありとあらゆる苦闘と苦難が君に降りかかることを祈る。大丈夫、骨は俺が拾ってやるよ」しかない。ただ、僕が骨にならないうちにな……(笑)。