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チームを勝利に導く 最強二番打者論

時代とともに変わったのか?変わらなかったのか?『週ベ』の夏の自由研究 二番打者を歴史を遡って考えよう!

 

今回の特集は二番打者の“進化”をテーマにしてきた。最後の最後で恐縮だが、あらためて、果たして本当に変わってきたのか、それとも、変化していないのかを、歴史を振り返りながら考えてみたい。これが意外と奥深い。


テーマ1 “強打の二番”は昔からいたのではないか?


 自由研究には表がつきものだ。(と思う)。下表は歴代の二番打者をタイプ別に分けたものだが、スペースの都合もあり、密度の濃い右上の「長打力が高く、小技力が低い」5選手、左下の「小技力が高く、長打力が低い」10選手は大きな違いはない。また、イチローの二番はあまり印象がないかもしれないが、オリックス時代のトータルで打率.344は普通ながら(イチローにしてはだが)、1995年以降で二番打者に入った3年の数字を見ると、95年が21打数9安打の.429、97年が29打数12安打の.414、98年が53打数22安打の.415とよく打っている。

 では、ここから歴史を振り返る。まずは強打の二番のルーツ探しだ。プロ野球草創期、阪神の二番打者は、のちの“ミスター・タイガース”藤村富美男だった。セカンド、投手の二刀流で、虎の「四番サード」でにらみを利かせた戦後に比べれば、まだ線は細い。ただ、犠打もほとんどなく、37年秋にはリーグ3位の打率.317をマーク。戦前の本塁打が通算3本は物足りないが(それでも36年秋の本塁打王=2本だが)、攻撃的二番打者の先駆けとは言える。

 戦後の1リーグ時代に猛威を振るった阪神ダイナマイト打線の二番・金田正泰は46年に首位打者(.347)を獲得し、49年には打率.302、10本塁打で犠打は3。ただ、49年は三番・別当薫が.322、39本塁打、四番・藤村富が.332、46本塁打、五番・土井垣武が.328、16本塁打。飛ぶボールの時代でもあり、特出していたわけではない。

 50年代、巨人の二番打者だった千葉茂こそ、“元祖強打の二番打者”と言っていいのではないか。53年の打率.320はチーム2位、12本塁打はチーム最多タイ(飛ぶボールではなくなった)、80打点はチーム最多だ。四番に入ってもおかしくなかったが、四番には6本塁打ながら打率.347の川上哲治がいた。千葉は右打ちの名手で、どんな球でも進塁打にする自信があるのに、水原茂監督が犠打のサインばかりを出すと嘆いていたという。わざと2ストライクにしてから、3バントで決めた逸話もある(同年19犠打)。ただし、球史において“強打の二番打者の元祖”となると・・・

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