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巨人軍監督80年の歴史を振り返る

 

7代目の知恵者・三原監督は強引なやり方で巨人を優勝させるが、このやり方は悪弊として残った


 盟主・巨人の野球は、藤本定義が作り上げたといっても過言ではなかった。その中で三原、水原、中島治康、川上、千葉、中尾輝三(のち碩志)、藤本英雄らが、巨人はこうあるべきと「巨人ブランド」の内実を満たしていった。

 藤本のあとは、中島、藤本英が受け継ぎ、44年限りでプロ野球は休止となった。

 戦後は藤本英-中島で1年目の46年、2年目の47年の途中までを終えたが、巨人はグレートリングや阪神に及ばない。ここで三原の登場となる。47年6月6日から指揮を執ったのだが、この時点で巨人は最下位の8位。途中とはいえ、これは球団史上初の屈辱。三原は、このチームを最終的に5位に押し上げた。しかし、48年は、南海に敗れて2位。このチームは、このままではどうあがいても、優勝できるチームではない。とんでもない荒療治が必要だ。そこで三原が考え出したのが、この年優勝した南海の大エース、別所昭(のち毅彦)を“強奪”することだった。これは13年の楽天のエース、田中将大(現ヤンキース)を2位の西武が引き抜くようなものだ。あり得ない“暴挙”。しかし、三原はこの強奪を成功させ、巨人は49年、戦後初優勝を達成する。

 三原は知恵者ではあったが、藤本定義のような、選手を「この人のためなら」と心酔させるタイプの監督ではなかった。のちの大洋監督時代に当時のルールの盲点を突いて、26選手を起用したことがあり、「勝つためなら何でもやるぞ」のタイプ。しかし、これは、巨人という球団の体質でもあって、のちの江川事件と別所強奪事件は遠く響き合うのである。生え抜きの千葉は、三原に「それほどワシらが信用できんのですか?敵の助けを借りて勝つようなことは納得できん!」とかみついたが、三原はすまし顔で「別所は1勝もせんでいい。ただ、南海からいなくなる、これだけでいいのや」。これに対して千葉は二の句が継げなかったそうだが、巨人監督は、こういう面も持ち合わせないと危機の時代を生き抜けないことも、また確かなのだ。のちの川上監督のやり方は、この三原に学んだと思われるところが多々あった。

 千葉のような怒りは、ほかの選手も共有し、「三原にはやめてもらいたい」の気分が充満してきた。それが、いまだに謎の“連判状事件”となって噴出した。あったのか、なかったのかのセンサクはともかく、また千葉に登場してもらうと「水原さんがシベリアから帰ってきた(49年)のやから、三原さんは次の年には退くべきなのや。水原さんは巨人のMVP(42年)で大功労者。三原さんは選手としては何もしとらん。水原さんが昭和25年(50年)に監督になるのは当然、必然やった」。49年7月、水原がシベリア抑留から帰国してから、巨人選手とプレーしたことを知る人は案外少ないだろう。水原はオープン戦に何試合か出たのだが、雨の中のひどいコンディションでプレーさせられたこともあった。かつての人気選手を巨人は出したかったのだ。これも反三原ムードに拍車をかけた。12月31日、三原は総監督に棚上げされ、水原は8代目巨人監督に就任した。ここから、三原、水原の“巌流島”がスタートする。

 水原は先に書いたように慶大OB。巨人にまた、三宅大輔の野球が戻ってきた。実際、水原は、54年、三宅をコーチに招いている。三宅の持論は「野球はボールを遠くへ飛ばすスポーツ。ゴロを打つスポーツではない」。しかし、川上の長打力に衰えの見え始めた巨人では、そういう野球は難しかった。これは、のちの長嶋茂雄王貞治両監督にも引き継がれた野球なのだが、言うは易しで、実際は2人ともバントを多用せざるを得なかったのは皮肉だった。

8代目・水原監督は三宅野球目指すも投手力で勝つ。9代目・川上監督は戦前、戦後をしっかり参考に


 それはともかく、水原は50年から退任の60年までの11シーズンで優勝8回、日本一4回の大監督となった。しかし、三宅野球の実践は難しく、11シーズン中、リーグ最多本塁打を記録したのは、7回だが、うち3回は、長嶋茂雄が入団した58年以降のもので、巨人の強さは、別所、藤本、中尾、大友工藤田元司らの投手陣の力投が作り出したものだった。

 61年に監督に就任した川上には、戦前の38年から65年まで、巨人をウオッチングしてきた眼力があった。どうすれば強くなるのか、と同じくらいのウエートで、どうすれば負けないか、これを川上は、考え抜いた。初めの4シーズンは試行錯誤が続いたが、いわゆるON砲、王貞治と長嶋のバットがそろって火を噴き始めた65年からは無敵の巨人となった。ONで奪い取った得点を、あとはどうすれば負けないか、の野球で守り抜く、この野球の貫徹だった。投手も打者も、ON以外は、どう使おうが文句は言わせないコマに過ぎなかった。ただ、その駒たちが、意外に自己を主張する“物言うコマ”だったのが、川上にはかえって幸いだった。土井正三堀内恒夫高田繁らは、そういう“圧制”の中で、自分の個性を発揮できるタイプだった。土井などは、川上の「給料が上がるぞ」の口約束をホゴにされたことで、怒りの電話をして、電話口の川上をしどろもどろにさせたほどだった。

 こうしてサムライたちの川上巨人は前人未到のV9を達成するのだが、世の中の流れはいつしか、ミスター・ジャイアンツの長嶋がいつ監督になるのかの話題ばかりになっていった。今回の高橋由伸と同様、長嶋はもう1シーズン現役をやりたかったのだが、それは叶わず、75年に39歳の若さあふれる第10代巨人監督の誕生となった。ここからは75年は初の最下位。連続V(76〜77年)も、80年、3位に終わると長嶋“解任”となり、その間に江川事件が挟まるなど激動の時代となるのはご承知のとおり。

 81年からは藤田元司監督が3年(2度のV)、84年に王監督就任。5年で1度のVに終わり、89年から再び藤田監督。これが92年まで(2度のV)。ちなみに藤田監督は慶大OBだが、三宅野球とはまるで無縁の投手力野球だった。それは、89年の69完投、90年の70完投という数字に表れている。野球が違うとはいえ、今年の巨人の完投は、わずかに11。斎藤雅樹槙原寛己桑田真澄といった投手たちの尻をたたきにたたいて、投げに投げさせたのが藤田野球だった。斎藤は89年に11試合連続完投勝利という、とてつもない記録を樹立した。このころの巨人野球は、その歴史の中で特殊、特別なものだった。

 93年からは、長嶋監督の再登板。ここからは、言わば現代史。02年から原辰徳監督。04年から堀内恒夫監督。06年から再び原監督で15年に至る。この期間は、読者の方がよくご存じだろう。この間に生まれた大スターと言えば松井秀喜、高橋由伸だった。そして監督のバトンは、高橋由に渡った。

 ここまで縷々述べてきた、巨人監督の歴史の中で、高橋新監督は、どの人の何を学べばいいのか?来季の四番を誰にすればいいのか、こんな悩みを抱えた監督は、実は過去の13人にはいなかった。長嶋が現役からそのまま監督になった75年は大ピンチと言われたが、王貞治がいた。川上、長嶋、王、原、松井、そして、高橋由伸レベルの打者を欠く巨人(数年前の阿部慎之助なら問題ないのだが……)。これは80年の歴史の中で初めてのことである。高橋新監督、さてどうする?
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