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追憶のスタジアム

追憶のスタジアム 第3回『駒澤球場』(1953-62) 暴れん坊たちの棲家

 

追憶のスタジアム第3回は、東映フライヤーズの暴れん坊たちが愛した砂ぼこり舞う球場だ。

球場前でポーズを取る張本勲


東京都に返還された畑の中のスタジアム


 東京・駒澤(今回は球場の看板に合わせ、旧字の澤にした)と言うと、緑豊かな公園と高級住宅街を思い浮かべるかもしれない。

 1953年の開場当時は、東京の他の郊外の風景同様、周囲は一面の田んぼや畑。駒澤の場合、主にネギや里芋、麦畑もあったという。風の方向によっては、試合中に人糞肥料の臭いもした。球場に向かう道も当初は土で、雨が降れば泥沼のようになり、ゴム長靴でも履かなければ歩くこともできなかった。

 日本ハムの前身、東映フライヤーズの本拠地として知られる駒澤球場だが、53年の開場時は、東映ではなく、東急フライヤーズ。球場は親会社の東急が作り、東京都に寄贈したものだった。翌54年から東映になったが、4月3日の開幕戦の入場者数は、なんと186人。渋谷から球場への直行バスの乗客はわずか4人だったという。頭を抱えた球団代表の石原春夫は大川博オーナーに球場改善案を提出。しぶる本社経理部を説得し、ナイター照明設備を55年6月に設置してもらったりしたが、チームの低迷もあって集客は伸びず。ある辛口の野球評論家に「あの球場が満員になったら・・・

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