週刊ベースボールONLINE

追悼

追悼──赤ヘルカープの名将、古葉竹識氏が逝く「選手時代から、このファンを裏切ってはいけない。広島の人たちに喜んでもらえる野球をしなきゃとずっと思っていました」

 

1975年、広島カープ初優勝時の監督であり、以後も厳しい指導で選手を鍛え上げ、黄金時代を築き上げた名将・古葉竹識氏が11月12日、心不全で死去。85歳だった。
構成=井口英規

ファンやマスコミには、笑顔を絶やさず常に丁寧に接した


長嶋との首位打者争い


「耐えて勝つ」が座右の銘。1975年(昭和50年)5月4日、広島監督就任時は39歳だった。涼しげで優しい笑顔は「古葉スマイル」とも言われたが、勝負に対しては一切妥協することなく、厳しい指揮官だった。

「試合が終わるまで1球たりとも集中力を切らさず、打って守って、走る。これがプロとしての価値です。ミスしても何も言われないと、ああいいんだなと中途半端な野球につながってしまいます。厳しく言ったし、手も出ました。よく選手に言われました。『ウチの監督は二重人格だ。ファンには愛想がいいのに、グラウンドに入ったら何をするか分からない』って(笑)。ただ、最近は、あんまりみんなが『俺は殴られた』『俺は蹴られた』って言うから『そんなことないぞ。さわっただけだ』って言ってますけど(笑)」

 2016年、広島が久びさに優勝を飾った直後の言葉だ。当時の取材はいつも古葉さんのなじみの喫茶店。そのたび、「本当は止められているんだけどね」と言いながら、ケーキなど甘いものを頼んでいた。こちらがいくら言っても自分で勘定を払ってしまい、最後は駅まで送ってくれ、握手して別れるのが常だった。

 熊本県出身。済々黌高から専修大に進むも、父親の死去もあって中退し、社会人・日鉄二瀬を経て58年、広島に入団した。日鉄二瀬では濃人渉監督(のち中日監督ほか)に徹底的に鍛えられ、「広島なら必ず長く使ってもらえる」と勧められての入団だった。

 63年には1学年の上の巨人長嶋茂雄と激しい首位打者争いを演じたが、その佳境であごにデッドボールを受け、離脱。最終的には2厘差で及ばず2位となった(打率.339)。悔しかったのでは、と尋ねると「いえ、相手が長嶋さんですからね」と答え、「入院中、長嶋さんから『悔しい思いをしているだろう。来年もまた頑張ろう』という電報をもらい、ずいぶん励まされました」と言っていた。

 ただ、これで打撃開眼とはいかず、翌年は無意識ながらボールへの恐怖心も生まれ、打撃不振。それでも「何か成績を残さなきゃ給料を下げられる」と奮起し、同年盗塁王となっている。

 70年に南海移籍。ただ、首を痛めてしまったことで結果を出せず、2年で引退。72年から南海・野村克也監督に誘われ、コーチとなった。

 74年、大学の先輩でもある森永勝也の監督就任時、誘われ、一軍コーチで広島に復帰。しかし同年最下位で森永が退任。さらに翌75年途中にはジョー・ルーツ監督が球団への不信もあって退団すると、野崎泰一代行を経て監督に昇格した。

「やりたいもやりたくないもないですよ。ほかにいないんだから(笑)。ただ・・・

この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。

まずは体験!登録後7日間無料

登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。

関連情報

関連キーワード検索

HOT TOPICS

球界の気になる動きを週刊ベースボール編集部がピックアップ。

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング