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6年目の本格化。千葉ロッテ・清田を生んだ“勇断”と荻野貴司との出会い

 

文=斎藤寿子 写真=小山真司

プロ6年目の今季、目覚ましい活躍を見せている清田



飛躍のきっかけとなったある決断と運命の出会い


 これだけ彼の名を耳にするシーズンは、2010年のルーキーイヤー以来ではないだろうか。千葉ロッテのリードオフマン清田育宏だ。5月には4試合連続で3安打以上の猛打賞を記録し、9日現在、5月9日以来の連続安打記録を23にまで伸ばしている。1979年に高橋慶彦広島)がマークした33試合まで10。新記録樹立への期待も膨らんでいる。

 さて、清田と言えば、思い出されるのは入団時の経緯だ。東洋大からNTT東日本を経て、10年にドラフト4位でロッテに入団した清田は1年目、シーズン途中で一軍に上がると、64試合に出場し、打率2割9分をマーク。日本シリーズでは初戦で本塁打を放つなど、全7試合に出場し、ルーキーとしてはシリーズ最多の6打点をたたき出して優秀選手賞に輝いた。この時、清田は1年前に下した決断が間違いではなかったと思っていたに違いない。

 09年12月、ドラフト指名後の清田を、NTT東日本野球部合宿所に尋ねた。当時、報道では清田がプロ入りを悩んでいたとされていた。そのことについて率直に聞くと、清田は素直に悩んでいたことを認めた。だが、その理由は「4位という評価に納得がいかないから」という報道の内容とは違っていた。

「4位という評価しか得られなかった自分に対してふがいなさを感じたんです。都市対抗でも全然打てなかったですし、もう1年残ろうかなと考えたりもました」

 悩んだ末に彼は入団を決意したのだが、その決め手となったのが、ある人物の存在だった。現在、チームメイトの荻野貴司だ。2人は同学年で社会人時代から親交があった。その年、荻野はロッテからドラフト1位で指名されている。荻野とチームメイトになれるということが、清田に入団の決意をさせたのだ。

「野球はもちろん、人間的にも荻野のことは尊敬しています。彼となら切磋琢磨してやっていけると思いましたし、いつか一緒に外野のレギュラーとして試合に出場できたら最高だなと思ったんです」

 当時、清田はそう語ってくれた。

 2人が親交を深めたのは08年の夏、日本代表の合宿でのことだ。野手では唯一の同学年で、ホテルが同部屋だったことがきっかけだったという。しかし、実はその前から彼らは“切磋琢磨”していた。

 清田は大学3年の秋のシーズン終了後、自ら志願して、投手から野手に転向した。東洋大の高橋昭雄監督いわく投手としても身体能力は非常に高かったという。しかし、コントロールに難があった。さらに当時は、同級生には大場翔太(福岡ソフトバンク)、1つ下には上野大樹(ロッテ)らがいたため、なかなか登板機会を与えられずにいた。試合に出られなければ、何も始まらない。野手転向は将来を考えてのことだった。この自ら下した勇断がなければ、今の清田はないと言っても過言ではない。

 清田が野手として才能を開化させたのは、4年春のオープン戦だった。その対戦相手が荻野のいた関西学院大だったのだ。高橋監督は今もその試合を鮮明に覚えている。

「荻野が8打数8安打を打てば、清田も負けじと7打数7安打を打ったんです。清田は6、7打席目で連続ホームランを打ちました。彼がうちの主力となったのは、その試合からですよ」

 当時、2人にはまだ親交はない。だが、試合中、お互いの存在を意識し合っていたことは想像に難くなく、無意識のうちに“切磋琢磨”していたというわけだ。

 さて、現在はバッティングが話題にあがっている清田だが、高橋監督は守備にも注目してほしいと語る。

「清田は足もあるし、肩も強い。だから守備力は抜群ですよ。特にフェンス際に強いんです。大学時代はセンターでしたが、長打になりそうな打球を清田が捕って、何度もチームを救ってくれました」

 プロ入り初の1年を通してレギュラーで出場し続けた暁には、首位打者のみならず、ゴールデングラブ賞の可能性も出てくるかもしれない。いずれにせよ、それだけの才能の持ち主だということだ。
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