高校時代から常に全力でガムシャラなプレースタイルでチームをけん引していた杉谷。やっぱり何かを“持っている男”だった!?
プロになった現在もスイッチヒッターに加え、内外野を守れるユーティリティープレーヤーとして活躍する
日本ハムの
杉谷拳士。そんな彼は、高校時代にピッチャーとして甲子園のマウンドに立ったことがある。
一歳上の兄・翔貴さんの後を追って、帝京高に入学。持ち前の野球センスとハツラツとしたプレーで1年生ながら名門野球部のショートのレギュラーに抜てきされ、甲子園にも春夏合わせて3度出場している。その中で彼の名前が一躍クローズアップされた試合がある。
2006年夏(第88回選手権大会)の準々決勝、帝京高−智弁和歌山高戦。試合は壮絶な乱打戦となるが、9回表を終えて12対8と帝京の4点リードで勝負は決したかに見えた。だがここから相手の逆襲が始まり、12対11と1点差にまで迫られる……。ここで帝京ベンチは杉谷をマウンドへ。もちろん本職は内野手であり、過去にもピッチャーの経験は数えるほどしかなかったが、前田三夫監督は杉谷のここぞの場面での物怖じしない度胸に勝負を懸けた。
だが、この決断が甲子園史上初の珍記録を生むことになる。
投球練習を終え、気合みなぎる「投手・杉谷」が投じた1球目はいきなりのデッドボール……。すぐに交代となり、後を継いだピッチャーが打たれてチームは痛恨のサヨナラ負け。結果的に13失点目のランナーを出した杉谷に黒星がつき、世にも珍しい「一球敗戦投手」となった。
後にこのことをチームの先輩(親分!?)である
中田翔からもたびたびイジられ、本人にとっては思い出したくないエピソードかもしれないが、何かしらのドラマ(!?)を生み出すエンターテイナーとしての資質は、すでに高校時代から発揮されていたのは間違いないようだ。
写真=BBM