1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 即戦力左腕としてドラフト1位入団
高知の明徳高では、その怪力から“牛”と呼ばれていたという。日本ハム入団後のニックネームは“げんちゃん”。なんでも「原人に似ているから」ということだそうで、あまりうれしくない由来に思えるのだが、本人は大いに気に入っていて、球界を離れてからも“げんちゃん”を看板に掲げて活躍を続けている。貴重な左腕として1980年代後半の日本ハムで投げまくった河野博文だ。
明徳高から駒大へ進み、エースとして東都大学リーグ通算15勝、防御率1.91。3年の秋には無傷の6勝で防御率0.90、4年の秋にも無傷の4勝、防御率1.40で2季とも駒大を優勝に導いて、最優秀投手、ベストナインに。そのまま即戦力左腕と期待されてドラフト1位で85年に日本ハムへ入団した。
その4年前、Vイヤーの81年、日本ハムは確かに“左腕王国”だった。だが、83年オフにクローザーの
江夏豊は西武へ移籍し、先発の支柱だった
高橋一三は現役引退。80年に先発の投手タイトルを総ナメにした
木田勇は故障に苦しめられ、86年オフに大洋へ。81年に無傷の15勝でリーグ優勝の立役者となった
間柴茂有だけは日本ハムに残っていたが、当時の奇跡は再現できず、低迷を続けていた。
そんな日本ハムにあって期待どおり即戦力にはなったものの、81年のリーグ優勝から徐々に失速。84年には最下位に沈んだ日本ハムにあって、36試合に登板したものの8勝13敗と負け越し。翌86年も同じく36試合に投げまくったが1勝10敗と、さらに大きく負け越してしまう。
卓越した制球力やスピードがあるわけでもなく、ウイニングショットと呼べるような変化球もなかった。それでも、先発に、リリーフにと投げまくって、チームを支え続ける。その奮闘が報われたのが88年だった。その88年に首位打者となった
ロッテの
高沢秀昭は、「内角へドンと来る真っすぐが印象的。外角からのカーブなど、内角へ来る球はキレが良かった」と振り返る一方で、「何よりスタミナと勢いがすごかった」と証言している。最大の武器は「登板間隔が空くと乱れるクセがある」と言われるほどのスタミナと、のちの巨人時代に
長嶋茂雄監督も「顔」と独特な表現で評価した思い切りの良さだった。
酷使されて本領を発揮
88年も先発、リリーフを問わず投げ続けたが、夏場から徐々に安定感を発揮するようになり、日本ハムのAクラス争いもあった9月はチーム20試合のうち11試合に登板するフル回転。酷使で失速するどころか、水を得た魚のように本領を発揮していくことになる。10日の南海戦(東京ドーム)で完封したかと思えば、16日からの近鉄3連戦(藤井寺)ではリリーフで3連投、23日からのロッテ3連戦でも3連投で2セーブに加え、日本ハムが敗れた24日には1点ビハインドの9回表二死二塁から1人の打者を抑えるためだけにリリーフした。この9月は月間防御率0.40。これで西武の
郭泰源を上回って、最終的に防御率2.38で最優秀防御率に輝いた。
90年には5月にアキレス腱を断裂、球団がリハビリに専念できるよう任意引退扱いにしたところクビと勘違いして失踪騒ぎを起こすなどトラブルもあったが、93年には主に先発で7勝、翌94年には6年ぶりとなる規定投球回到達で8勝を挙げるなど、徐々に復活。そして95年オフにFA宣言、長嶋茂雄監督の率いる巨人へ移籍する。
新天地では
川口和久、
阿波野秀幸らと左のリリーバーとして機能して、再び鉄腕ぶりを発揮。巨人は最大11.5ゲーム差から首位を猛追、8月には首位に立ったが、その8月はチーム25試合のうち4連投を含む14試合に登板して4勝1セーブ、防御率1.86で月間MVPに。いわゆる“メークドラマ”に大きく貢献して、セ・リーグに新設された“初代”の最優秀中継ぎ投手にも輝いた。
2000年にロッテで1年だけプレーして、オフに現役引退。そのラストイヤーでさえも、主に左のワンポイントとして29試合に登板している。
写真=BBM