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プロ野球1980年代の名勝負

原辰徳が意地と怒りのグランドスラム(1989年10月26日、巨人×近鉄)/プロ野球1980年代の名勝負

 

プロ野球のテレビ中継が黄金期を迎えた1980年代。ブラウン管に映し出されていたのは、もちろんプロ野球の試合だった。お茶の間で、あるいは球場で、手に汗にぎって見守った名勝負の数々を再現する。

巨人のブレーキとなった原のバット


 1980年代の最後を締めくくる89年の日本シリーズは、時代が平成となって初の日本シリーズでもあり、東京ドームで開催される初の日本シリーズ、そして巨人と近鉄との初の日本シリーズでもあった。

 79年、80年とリーグ連覇を果たしながらも、日本シリーズでは2年連続で広島に屈した近鉄にとっては、初の日本一が懸かる頂上決戦。一方、東京ドームに本拠地を置く巨人にすれば、絶対に落としたくない大舞台でもあっただろう。そんな巨人は敵地で迎えた第1戦(藤井寺)から苦しめられる。近鉄は阿波野秀幸、巨人は斎藤雅樹と、両リーグ最多勝投手の投げ合いは阿波野に軍配。1点差で惜敗した巨人だったが、第2戦(藤井寺)も先発の桑田真澄が7回裏に打ち込まれて連敗を喫する。

 東京ドームへと舞台を移し、巻き返しを期した第3戦は加藤哲郎村田辰美吉井理人の完封リレーで完敗した。加藤哲の発言が「巨人は(パ・リーグ最下位の)ロッテより弱い」と報じられたのは、この試合後のことだ。巨人は第4戦(東京ドーム)を香田勲男の完封で、ようやく1勝目。ここから巨人の逆襲が始まる。だが、まだ苦しみ続けている男がいた。“四番・サード”として80年代を象徴する“若大将”原辰徳だ。

 原が86年、広島の津田恒実との対決で本来の打撃を失ったことは紹介した。この89年は復帰した藤田元司監督の方針で三塁から外野へコンバート。守備には慣れたが、バットが湿った。打率.261は自己ワースト。25本塁打もルーキーイヤーに続く2番目に少ない数字だった。さらには、この近鉄との日本シリーズ。いきなりの3連敗どころか、第4戦になっても本塁打どころか、安打すら出ない。明らかに原のバットがブレーキになっていた。

 迎えた第5戦。東京ドーム初の日本シリーズで、東京ドームで最後の試合だ。巨人の先発は斎藤、一方の近鉄は阿波野と、第1戦と同じ顔合わせ。原は「五番・左翼」で先発出場する。そして第1戦と同様、投手戦となった。

「いい思い出なんかじゃない」


シリーズ初安打が本塁打となった原


 先制したのは近鉄。5回表二死から、ブライアントのソロで1点を奪った。その裏には巨人も反撃。一死から投手の斎藤が右安打を放つと、打順は一番に戻り、簑田浩二が四球を選ぶ。代打の呂明賜は中飛に倒れて二死となるも、三番の岡崎郁が2点二塁打で逆転に成功した。ここで、四番のクロマティは敬遠。近鉄バッテリーは、この日も三振、二飛と当たりのない原との勝負を選んだ。そして遊ゴロ。これで原は、このシリーズ18打席連続無安打となった。

 屈辱は続いた。7回裏二死一、三塁から、近鉄バッテリーは再びクロマティを敬遠、満塁策で原との勝負を選ぶ。そして2ボール2ストライクからの6球目だった。原の打球は東京ドームの左翼席へ突き刺さる。このシリーズ初安打は本塁打、しかもグランドスラムに。これで巨人の2勝目は、ほぼ決まったといえる。

 のちに、原は振り返っている。

「あそこで打てずにシリーズを負けていたら、僕の野球人生は違ったものになっていたでしょう。あれは決して、いい思い出なんかじゃない。苦しい思い出としか残っていない」


1989年10月26日
巨人−近鉄 日本シリーズ第5戦(東京ドーム)

近鉄 000 010 000 1
巨人 000 020 40X 6

[勝]斎藤(1勝1敗0S)
[敗]阿波野(1勝1敗0S)
[本塁打]
(近鉄)ブライアント1号
(巨人)原1号

写真=BBM
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