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夏の甲子園名勝負

松井秀喜が5打席すべてで敬遠されて星稜が敗退……/夏の甲子園名勝負

 

いよいよ第101回大会を迎える夏の高校野球。1915年、つまり大正4年に始まり、昭和、平成という時代を経て、この夏が令和最初の大会でもある。昨夏、平成最後の大会となった100回までの長い歴史の中で繰り広げられた名勝負の数々を、あらためて振り返ってみる。

四球、四球、四球、四球……


1992年夏の2回戦、松井は1度もバットを振らずに甲子園を去った


 高校球児たちの熱い戦いは、観る者の心も熱くする。青春を全身全霊で甲子園の聖地に叩きつけるかのような彼らの姿に、つい忘れがちになるのだが、彼らは選手であっても高校生であり、高校野球は教育の現場でもあるということだ。生活の懸かったプロ野球でスポーツマンシップを逸脱した行為は“事件”だが、ある意味ではプロの選手よりも厳しく律せられている高校野球で、教育を逸脱したかに見える出来事が起きてしまうと、たちまち社会問題に発展してしまう。

 そんな場面の最たるものが、1992年の夏、2回戦だったのではないか。勝者は明徳義塾。敗者となった星稜の主砲は、松井秀喜(のち巨人ほか)だった。すでに“ゴジラ”の異名を取っていた超高校級スラッガー。1年の夏から四番打者として甲子園に出場し、2年の夏には初本塁打、3年の春には2打席連続を含む2試合連続3本塁打と、その打棒は群を抜いていた。

「高校生の中にプロが1人まじっている」

 とは、明徳義塾を率いる馬淵史郎監督の弁。

「僅差になったら徹底して松井を歩かせる」

 と、試合前から公言していた。そして、これは現実のものとなる。

 松井の初打席は1回表から回ってきた。二死三塁の場面、結果は四球だ。2回裏、明徳義塾はスクイズと適時二塁打で2点を先制する。続く3回表、松井の第2打席は、またしても四球。これで満塁となり、スクイズで星稜は1点を返す。だが、その裏には明徳義塾も1点を追加した。松井の第3打席は5回表一死、みたび走者を置いての打席で、四球。星稜は二死から適時打で1点差に詰め寄る。追いつ追われつの緊迫した展開が続いた。

 試合の展開も緊迫していたが、それ以上に緊迫した、いや、殺伐とした雰囲気に球場が包まれたのが7回表だった。二死、走者なし。松井の第4打席は、やはり四球だった。

9回表二死三塁からの最後の打席も……


 1回表の打席は一発が出れば先制、3回表と5回表は逆転という場面だった。7回表は同点。リードを許すわけではないが、それでも松井の存在は、明徳義塾にとってはピンチだったのだろう。1点差のまま迎えた9回表、二死三塁から、松井の第5打席は、四球。後続が倒れ、星稜は敗れた。

 この試合、松井の打撃成績は0打数0安打0打点。前代未聞の全打席敬遠に、グラウンドには客席からメガホンやゴミが大量に投げ込まれ、星稜ナインは片づけに追われた。そして、それが彼らの、甲子園でのラストシーンとなった。

 ちなみに、批判にさらされることになった明徳義塾も、続く3回戦で姿を消している。


1992年(平成4年)
第74回大会・2回戦
第7日 第3試合

星稜   001 010 000 2
明徳義塾 021 000 00X 3

[勝]河野
[敗]山口

写真=BBM
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