昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 ウワサの星野仙一に直撃?
今回は『1968年12月16日号』。定価は60円。
11月30日、もめていた
田淵幸一の
阪神入りがようやく決定した。
ドラフト当日からの流れを時系列で紹介していく。
11月12日、ドラフト会議。
巨人と相思相愛と言われた法大・田淵を阪神が強行指名する。
田淵は、
「ショックです。阪神には行きたくない。クジで決めるなんて……」
と語り、拒否し社会人に行く可能性を示唆した。
13日、阪神・佐川スカウトが田淵家を訪れ、1回目の交渉。田淵本人は5分だけ同席し、あとは父親が相手をした。田淵は「大阪には行きたくない」と言っていた。
19日には、巨人・正力亨オーナーが「阪神がトレードに出すならいつでも応じる」と発言。
20日、佐川スカウトによる2回目の交渉。田淵は「考えてみます」と態度を軟化したが、正力発言の後だけに少しきな臭い。
26日は阪神との第3回交渉予定日だったが、父親が「何度も同じことを言ってもらうのも申し訳ない。30日には考えをまとめて話します」と延期になった。
27日、ホテル・ニューオータニで田淵が巨人・沢田スカウトと密会。それがスポーツ紙にスクープされ、「プロ野球の世界は怖い」と田淵は青ざめたという。
28日、田淵家と大学関係者と話し合い、阪神行きがほぼ決まる。
29日、家族会議。父親は「あした阪神さんに態度を明らかにします」。田淵は「巨人がもっと早く動いてくれたらと残念です」と発言した。
30日、戸沢社長と佐川スカウトが田淵家へ。田淵の阪神入りが決定。理由を聞かれた田淵は「ドラフトのルールに従った」と語り、阪神を知っているかの質問には「よく分かりません」と蚊の鳴くような声で言った。
中日から1位指名された
星野仙一へのインタビューもあった。前回の“爆弾発言”が話題になっていた時期だ。
「もしかしたら巨人が指名してくるかなと思ったんです。ところが巨人は島野(修)で通過しちゃったとの知らせが入ったんですね。もういらいらしましたね」
と星野。あらためて意中の球団を聞かれ、
「やはり巨人だったです。でも、小さいころはずっと阪神が好きだったんですよ。野球を職業の1つとして考えた場合、やはり巨人がいいということです。
いつも思うんですが、巨人が勝ってばかりいるとつまらないですね。だから負けろ、負けろと応援しているんです。巨人というチームは自分の職業として考えるのはいいけど、第三者の野次馬気分で見るときは、思わず負けちゃえといった気分になる変なチームですね」
まだ、中日への入団を発表していない時期だが、とにかくはっきり物を言う。
ドラフト制度についても、
「僕らにとっては一生の問題がくじ一本で決められちゃうというのは不満です。だから僕はドラフトが終わってからの座談会で『組合をつくって対決しよう』と発言したんですが、それが本当の気持ちですね」
この人が巨人、あるいは阪神に入っていたらどうなっていたのだろうか。
巨人では
堀内恒夫とキャラがかぶってしまったかもしれないが、阪神なら
江夏豊とうまく刺激し合い、チームを変えていたかもしれない。
誰もが、単なる暫定監督と思っていた阪神・
後藤次男監督だが、同じく誰もが困難と思っていた、でっかい仕事をやり遂げた。
吉田義男と
村山実の握手である。
2人の不仲は有名だった。
KOでふてくされる村山に、「野球は一人でやるもんじゃない」と先輩の吉田が小言を言ったり、送りバントが嫌いな藤本定義監督がサインを出さないのに吉田が勝手に犠打をした際、「あの人は自分のことしか考えていない」と村山が非難したり(村山は吉田が打率を下げないためにした、と考えたが、吉田はサインはないが、必要と思ったからと答えていたようだ)。
捕手のサインで守備位置を変えていたという阪神内野陣。真っすぐのサインで「ひらめいた」とフォークを投げる村山は、そのリーダーである吉田にとって、天敵のようなものだったのだろう。
もちろん、村山にすれば「ちょこちょこ動かんでも抑えたるたるわ。えらそうに言うんやったらもっと点を取らんかい」だったかもしれない。
冷戦状態になると、いつの間にか球団フロントやマスコミまで「吉田派」「村山派」に色分けされてしまうのも阪神の伝統。2人の関係はどんどん冷えていった。
その2人を後藤監督は同時に兼任でコーチにし、将来の幹部候補生と2人のプライドもうまくくすぐったようだ。
記者会見の席で、2人は笑顔で、がっちり握手。誰にも嫌われない人徳ある後藤監督ならではだ。またも同じ締めになるが、
さすが仏のクマさんである。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM