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プロ野球20世紀の男たち

シェーン、ホプキンス、ギャレット、ライトル、ロペス&ブラウン「初優勝の使者から指揮官となったハッスルプレーヤー。赤ヘルの助っ人たち」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

“赤ヘル”を生んだ助っ人監督


広島・ルーツ監督


 広島が球団創設26年目にして初のリーグ優勝を果たしたのが1975年。“赤ヘル”と呼ばれて旋風を巻き起こしたが、プロ野球で初めてチームの色に赤を採用したのが就任したばかりのルーツ監督だった。

 4月27日の阪神戦(甲子園)で球審に抗議したことから球団と衝突、そのまま退団したものの、80年代の広島黄金時代、そして21世紀に入っても“赤ヘル”は健在。その75年には2人の助っ人が優勝に貢献したが、1人はプロ野球で初めて左右両打席本塁打を放ったシェーン、もう1人はシーズン33本塁打、そのうち32号は優勝を決定づける本塁打となったホプキンスだ。ともにルーツ監督が呼び寄せた好打者。指揮を執ったのは短期間だったとはいえ、その功績は大きい。

 市民球団として誕生した広島は、最初の外国人選手も市民からの援助を受けて獲得したものだった。53年に入団したのが銭村健三、健四の兄弟と、光吉勉。いずれもハワイから来た日系人で、結果を残したのは“ハーベイ”銭村健四だけ。小柄ながらガッツあふれる攻守走で戦力不足に苦しむ広島を支えた。55年に入団した“フィーバー”平山智も三拍子がそろった外野手で、64年までの10年間プレーを続け、中米スカウトに転じた。

 平山が引退してから71年までは外国人選手は不在。72年から獲得が本格化する。シェーンとホプキンスは、ともに2年で退団。ちなみに、在籍中から広島大にも通うなど医学の勉強をしていたホプキンスは、のちに医者としても成功を収めている。


 初優勝の使者となった2人の後釜がギャレットとライトル。長距離砲のギャレットは外野手ながら来日1年目の77年に11試合でマスクをかぶり、巧打者ながら強打も兼ね備えたライトルは強肩を利した外野守備でも鳴らした。ギャレットは79年に近鉄との日本シリーズ第3戦(広島市民)で決勝打を放つなど初の日本一に、ライトルは翌80年、同じく近鉄との日本シリーズで打率.400をマークして連続日本一に、ともに貢献。79年オフにギャレットは退団したが、残ったライトルは81年にリーグ最多の157安打、4年連続ダイヤモンド・グラブなど活躍を続け、83年に南海へ移籍した。

 一塁へのヘッドスライディングなどのハッスルプレーだけでなく、隠し球でもファンを楽しませた二塁手のアイルランドが84年オフに退団すると、翌85年から2年間は、ふたたび外国人選手が不在に。86年には2年ぶりリーグ優勝を果たしているが、助っ人が1人もいない優勝と話題になっている。87年には来日1年目のランスが本塁打王となるも、同時に三振王にも。さらに安定感を欠いた翌88年に退団。その後、90年代に入るとドミニカ共和国にカープアカデミーを立ち上げ、独自のルートで外国人選手を獲得することも増えていった。

選手としては退場ゼロのブラウン


広島・ブラウン監督


 広島の20世紀における最後の優勝は91年。以降、優勝から遠ざかったこともあるのか、あるいは好印象だった黄金時代の助っ人たちとの落差のためか、トラブルメーカーの印象が強くなっていく。

 カープアカデミー出身のチェコは背番号106で95年に15勝を挙げたが、オフには“チェコ問題”と言われる契約トラブルが勃発。来日1年目の96年から2年連続で打点王に輝いたロペスも、97年オフに球団との交渉がトラブルとなり自由契約、2000年に復帰してからも02年に前田智徳をダグアウト裏で殴打する事件を起こしている。

 21世紀に入り、監督として抗議でベースをブン投げて退場を宣告されると、帽子を取って審判や観客に頭を下げる姿のインパクトに上書きされている印象もあるが、チェコと“同期”で92年に来日したのがブラウン。2年目の93年にチーム最多の83打点をマークするなどの勝負強い打撃に加え、登録は内野手ながら、外野守備でのハッスルプレーで人気を博した。ただ、選手としても監督としても在籍したのは低迷期。監督としては楽天時代も含めて退場は10度を数えるが、選手としては1度もない。

写真=BBM
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