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「見たことのない軌道の魔球」 相手打者が驚いたジャニーズ系右腕とは

 

1年目からリリーフで大活躍


甘いマスクで抜群の人気を誇った潮崎


 西武の黄金時代にジャニーズ系のルックスで絶大な人気を誇った投手がいた。ただ、すごいのは人気だけではない。サイド右腕から繰り出される伝家の宝刀・シンカーは「見たことのない軌道の魔球」と球界で話題になり、相手打者をきりきり舞いにした。先発、救援で活躍した潮崎哲也だ。

 身体能力が高い投手ではない。鳴門高ではスリークォーターのオーソドックスなフォームから直球、カーブ意外に決め球がなく、控え投手兼外野手の時期が続いた。このためフォークやパームなど新たな変化球の習得に励んだがうまくいかない。2年時に「目先を変える意味で、横でも下からでも投げておけ」と首脳陣に指示され、投球フォームをサイドスローに変更する。転機は3年春だった。高松西高と練習試合を行なった際、同じサイドスローの相手投手がシンカーを投げていたことから、監督に勧められて挑戦した。カーブと逆に手首を捻って中指と薬指から抜くような独特の投げ方を試すと、驚くほど落ちるシンカーの軌道に。この球種を覚えたことで野球人生がガラリと変わる。投手として覚醒し、甲子園出場はならなかったが、3年夏の徳島県大会で決勝戦進出の立役者となった。

 高校卒業後、松下電器に入社すると1年目から先発を務めた。直球の球速も10キロ以上上がり、150キロ近くに。40〜50キロ遅い100キロ台のシンカーとのコンビネーションで相手打者を幻惑し、社会人野球を代表する投手として注目される。88年のソウル五輪では史上最年少の19歳で選出され、野茂英雄石井丈裕とともに先発要員で活躍。予選リーグ第1戦以外の4試合すべてに登板し、計8回2/3で1失点と抜群の安定感で銀メダル獲得に貢献した。

 野茂、与田剛とともに「社会人三羽ガラス」と評価されたドラフトでは、西武から単独1位指名を受ける。野茂に8球団が競合した状況もあるが、当時の西武は先発陣に比べて救援陣が弱かったことから潮崎を高く評価し、一本釣りに成功した。

 1年目から投手部門のタイトルを総ナメにした野茂ほどの衝撃はなかったかもしれない。だが、潮崎の活躍も出色だった。ドラフト1位の投手で森繁和以来11年ぶりとなる開幕一軍入りを果たし、救援でフル稼働。その名を全国に知らしめたのが7月5日のオリックス戦(西宮)だった。同日の試合で2本塁打を放った門田博光を含む「ブルーサンダー打線」の強打者たちを相手に8者連続三振の快投。新人では62年の尾崎行雄以来となる快挙だった。

 鹿取義隆とともにダブルストッパーを務め、史上2人目のリーグ優勝と日本シリーズ制覇の両方で胴上げ投手に。43試合登板で7勝4敗8セーブ、防御率1.84で新人王は野茂に譲ったが、パシフィック・リーグ会長特別賞を受賞した。

ありえない変化をしたシンカー


サイドから魔球シンカーを投じた


 93年には鹿取、杉山賢人とともに勝ち試合の終盤を任せられる「サンフレッチェ」の核として自己最多の53試合に登板して6勝3敗8セーブ、防御率1.18をマーク。94年も2年連続で50試合に登板し、防御率2.39と安定感あふれるパフォーマンスで、同年オフに清原和博と並ぶ球団史上最速の6年目で年俸1億円の大台に到達する。

 シンカーと分かっていても打たれない。まさに魔球だった。週刊ベースボールの当時のインタビューでチームメート、相手打者の証言がそのすごさを物語っている。エースの渡辺久信は「一度フワッと浮いて、ストライクゾーンに落ちてくる。それまで見たことがない軌道だった。まさに魔球だよね」、当時は捕手だった和田一浩も「左投手のように曲がる。西武時代に潮崎さんのボールを(捕手として)受けていたけど、あの曲がりは特殊」と語っている。また、オリックスの福良淳一は「一度浮き上がってきて、目線から消えた。それで完全に上体が起こされてしまって。ファウルで逃げ粘るのが精いっぱいやった」と脱帽。小川博文が「抜けたと思ったらボールからストライクゾーンに入ってくる。想定外の変化をする。打席でのけぞったのはあの球ぐらい」と衝撃を口にしている。

 潮崎は女性人気も凄かった。身長176センチ、体重68キロの細身の体に加え、ジャニーズ系の甘いルックス。新人時代は1週間に40通以上のファンレターが届き、プレゼントも大量に贈られた。スポーツ雑誌の「人気選手ランキング」ではトップ3の常連に。登板時に潮崎の名前がコールされるとスタンドから黄色い歓声が起こった。

 当時のプロ野球選手では珍しい「かわいい系」の風貌で女性ファンのハートをがっちりつかんだが、ピンチに動じないメンタルに加え、大きな故障がなく体も強かった。1年目から7年連続40試合以上登板。97年は先発に転向して12勝をマークした。その後もチーム事情に合わせて先発、救援で投げ続ける。36歳シーズンの04年は13試合登板にとどまり、力の衰えを感じてユニフォームを脱いだ。

 プロ通算523試合登板、82勝55敗55セーブ、防御率3.16。当時はホールド制度が導入されていなかったが、勝利の方程式でセットアッパーを長年務めていたため、200ホールドは超えていただろう。潮崎が西武に在籍した90〜04年までの15年間でチームは9度のリーグ優勝、4度の日本一を飾っている。「常勝軍団」の一員として不可欠なサイド右腕だった。

写真=BBM
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