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プロ野球回顧録

甲子園優勝投手でセ・リーグ最多の579盗塁 「赤い手袋」が代名詞のモテ男は【プロ野球回顧録】

 

プロ入り早々に投手から外野手へ転向


「赤い手袋」がトレードマークだった柴田


 巨人の歴代最多盗塁は579盗塁をマークしたV9のリードオフマン・柴田勲。NPB歴代では3位で、セ・リーグでは最高記録だ。「赤い手袋」が代名詞で女性人気はすさまじかった。

柴田は法政二高のエースで2年夏、3年春と全国制覇して甲子園優勝投手に。プロでも投手として入団する。高卒1年目で開幕2戦目に先発のマウンドを託されるなど期待は大きかったが、投げ込みで背中を痛めると同年に早々と外野手に転向する。「こだわりとかの以前に、ピッチャーで入っている。バッターに転向するなんて、ゆめゆめ思わなかったよ。でも、考えれば、勧誘に来ているときから、おかしなところがあった。オヤジに『お父さん、心配しないでください。柴田君は投手がダメでも打者で大成するから』って。おかしいよね。投手がやりたくて、投手で結果を出した人を誘いに来たはずなのに最初から転向の話だからさ」と笑う。

 思い描いていた野球人生とは違ったが、首脳陣から俊足を生かしてスイッチヒッターに挑戦することを命じられる。野球センスが常人離れしているのだろう。ただ、左打席でも血のにじむような練習を積み重ねたことを忘れてはいけない。2年目の1963年に43盗塁をマークしてレギュラーをつかむ。トレードマークの赤い手袋を着けるようになったV9の2年目の66年に46盗塁で初の盗塁王に輝くと、翌67年には自己最多の70盗塁で2年連続タイトルを獲得する。

 好き勝手に走れたわけではないからこそ、大きな価値がある。「サインも『走れ』じゃなくて『待て』が多かった。特に王さんが三番で打席に入ったときは、一塁にいても盗塁で二塁に行くと敬遠されちゃうし、一、二塁間も狭くなるでしょ。70盗塁の年も、普通にやらせてもらえれば80盗塁は簡単にいったと思うよ」。だが、その翌68年、そんな柴田は次なる“転向”を求められる。

 スイッチヒッターとして全盛期を迎えていたときに、首脳陣から思わぬ指令を受ける。「右打者に専念してくれ」。王貞治長嶋茂雄の後を打つ五番打者として柴田に白羽の矢を立てられた。長打を増やすために右打者に専念したほうが良いというのが目論見だった。右打者に専念した68年は自己最多の26本塁打を放つが、打率.258と前年の打率.287から大幅に落とし、リーグワーストの106三振を喫する。

 71年に再びスイッチヒッターに転向する。「悩んだ末、川上監督に『スイッチに戻していいですか?』って聞いたら、『どっちでもいいよ』って(笑)。どっちでもいいなら、なんで転向(右打席に専念)させたんだろうね。そこから、また打率も上がった」。だが、チーム事情を優先する柴田の自己犠牲の精神は巨人の強さの証明でもあった。65年からプロ野球の歴史で前人未到の9年連続でリーグを制覇、日本一に輝く。

日本シリーズで有終の美


81年に行われた引退セレモニー(左は松原誠


 81年限りで現役引退するまでの20年間のプロ野球人生で、盗塁王を6度獲得。打率3割に到達したシーズンは1度もなかったが、通算2018安打を積み上げた。

「巨人じゃなかったらバッターに転向してないよ。したとしても5年目くらい。巨人に入ったからバッターに早く転向して、2000安打も打てたんじゃないかな」。

 赤い手袋で巨人の黄金時代を疾走した男は最後までカッコ良かった。現役晩年の81年はスタメンでの出場が6試合のみだったが、日本ハムとの日本シリーズ第4戦から大舞台での勝負強さを買われて先発に抜擢される。第5戦で5回裏に適時打、第6戦では2回にチーム初安打を放って先制の口火を切り、V9以来となる日本一に貢献。有終の美を飾ってグラウンドを去った。

写真=BBM
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