“奇跡”の2年間
この2021年の広島では、捕手の
會澤翼が「27」、左腕の
床田寛樹が「28」に並んでいる。「27」は一般的には捕手ナンバーの筆頭格といえる背番号で、07年に入団した會澤は15年に「64」から変更。一方の床田は17年に入団して1年目から背負っている。広島が16年から3年連続でリーグ優勝を果たしたが、歴戦の會澤が「27」を背負って黄金時代に突入、その真っただ中に若き床田が「28」で並ぶことになった。とはいえ、両者はバッテリーでコンビネーションを発揮することはあっても、黄金時代を象徴する名コンビというのとは違う。そもそも、たまたま背番号が並んでいる2人が名コンビを形成すること自体が稀有なことであり、それは“奇跡”ということもできよう。
だが、四半世紀を超える長い時間をさかのぼり、その“奇跡”があったのが20世紀の広島だった。広島の「27」と「28」が並ぶことで、広島にとどまらず、長いプロ野球ファンのにはピンと来るはずだ。
背番号「27」時代の山本
【広島】主な背番号27の選手
長谷部稔(1951〜55)
山本浩司(1969〜70)
金城基泰(1971〜76)
原伸次(1981〜94)
會澤翼(2015〜)
1975年に初のリーグ優勝を飾った広島は、79年からリーグ連覇、2年連続で日本一にも。84年にも日本一に輝き、86年にはリーグ優勝。2016年からの3連覇が平成の黄金時代なら、この75年から86年にかけては昭和の黄金時代といえるだろう。91年にもリーグ優勝があったから、これを含めて20世紀の黄金時代といってもいいが、86年を最後に現役を引退、91年は監督だったのが「8」で永久欠番となっている山本浩二。登録名が微妙に異なるが、69年から2年間、「27」だったのは、この山本(当時は山本浩司)だ。「27」はドラフト1位で69年に入団した山本にとっては最初の背番号でもある。
【広島】主な背番号28の選手
衣笠祥雄(1965〜74)
萩原康弘(1976〜82)
西田真二(1983〜95)
瀬戸輝信(1996〜2004)
床田寛樹(2017〜)
もう説明は不要かもしれない。山本が引退した翌87年に連続試合出場を途切れさせないままバットを置いたのが「3」で永久欠番となった衣笠祥雄だ。
“鉄人”の由来
背番号「28」時代の衣笠
衣笠は入団の65年から10年間を「28」で過ごしている。わずか2年間だが、のちの“YK砲”が並んでいた時期があった。長い広島ファンには、「8」や「3」より、この「27」と「28」のほうに思い入れがあるという人もいるかもしれない。のちの連続試合出場もあって、異名の“鉄人”そのものの選手だった衣笠だが、連続試合出場に耐えうる強靭さから“鉄人”と呼ばれたわけではない。もちろんタフさもあったが、由来は「28」。当時、漫画の『鉄人28号』が人気を博しており、そこから衣笠が“鉄人”と呼ばれるようになったという。そして衣笠は「28」時代に連続試合出場をスタート。広島が初めて優勝の美酒を味わった75年に背番号は「3」に変更となったが、衣笠は最後まで試合を欠場することはなかった。
三塁手、一塁手として黄金時代に貢献した衣笠だが、もともとは捕手。衣笠の後に「28」は萩原康弘、西田真二と左の代打として鳴らしたスラッガーがリレーして、96年に捕手の瀬戸輝信が継承。ただ、最長は西田の13年間で、2015年には「25」がトレードマークの
新井貴浩が
阪神から復帰して1年だけ暫定的に(?)着けたこともあった。1年の欠番を挟んで「28」を継承したのが床田だ。
一方、「27」では山本、その後継者となって初のリーグ優勝に貢献したサブマリンの金城基泰らが“突然変異”といえる存在。創設期の51年から55年まで背負った長谷部稔は捕手で、最長は81年から94年までの14年間を過ごした内野手の原伸次(伸樹)だが、原も入団した当初は捕手だった。
衣笠の「28」が異名の“鉄人”を呼び、その“鉄人”が衣笠を連続試合出場に導き、その前の「27」を背負った山本は、衣笠と切磋琢磨を続け、ともに黄金時代の象徴となっていった。たたずまいは変わったものの、背番号の世界で會澤と床田が“YK砲”の後継者であることは確かだ。
文=犬企画マンホール 写真=BBM