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プロ野球回顧録

「プロの評価はカネ」中日・落合博満が行った日本人初の年俸調停【プロ野球回顧録】

 

単なる銭闘ではない


1990年、打撃2冠と好成績を残していた中日・落合


 年俸調停とは、交渉を重ねてもその金額に納得がいかない場合、希望額を提示した上で第三者である調停委員会にその判断を委ねるシステム。かつて日本球界でこの制度に踏み切ったのは、1972年オフ、阪神レオン・マックファーデン(その後、任意引退)のみ。日本人はいなかった。「おカネじゃない」と一発更改が美徳とされる日本球界では、年俸で球団ともめるのはイメージダウンにつながるからだ。球団との関係も悪化し、選手生命にも影響を与えかねない。

 1990年オフ、調停第2号にして、日本人として初めて行ったのが、プロ12年目のシーズンに臨んだ中日・落合博満だった。90年は打率こそ.290(リーグ13位)と3割に届かなかったが、34本塁打、102打点で打撃2冠に輝いている。チームは4位のBクラスに転落したが、2冠を手中に収めた落合は、12月27日、契約更改の席で、その年の年俸1億6500万円からの大幅アップを伊藤闊夫球団に要求した。その希望額は3億円(推定。以下同)。今とは違う。球界に1億円プレーヤーはほとんどおらず、落合は、いわば無人の野を進む男だった。

 これに対して球団側の提示は2億2000万円。両者の開きは埋まらぬまま第1回の交渉は終わった。落合が譲歩できると思っていた“妥協額”は、実際の年俸1億8000万円からの50パーセント増の2億7000万円だったと言われる。

 ここから、長い駆け引きと暗闇の闘争劇が始まっていく。

 さらに、単純な金額だけの問題ではなく根本的な「考え方の違い」も表面化した。球団側の提示額は成績を基準にした貢献ポイントの査定であり、数字をもとにしてはじき出した金額。反対に落合は、自分自身を商品と考え、「これだけの価値のある商品を、これで買ってくれ」という、商人であり芸術家的要求だった。真っ向から意見が対立するのも無理はなかった。

 年が明けた1月中旬ごろから、落合がメディアを通じ主張し始めたのが「球界に“夢”を」論だった。「今のプロ野球は魅力がないから、子どもたちはゴルフやサッカーやほかのスポーツに行ってしまう。プロ野球をさらに魅力のあるものにするには、球界の年俸の底上げをすべきだ」というものだった。

 球界の将来、自分に続く若い選手のために、選手の待遇改善を訴えたいという意図もあったという。

「王(王貞治)さん(元巨人)でも最高8000万円だと言われた。3度三冠王を獲った俺が2億でやめれば、次に来る選手が同じように言われるだろ」

 この2つの主張を軸に、単なる“銭闘”でないことを、終始アピールしていったのである。

納得の敗北?


3月8日、契約更改を終えての会見では笑顔が目立った


 1月15日に行われた第2回の極秘交渉も決裂。その後、約2週間の米国自主トレを行うため落合が渡米すると、球団側は1月決着を目指して国際電話で交渉を続け、2億4000万円での打診をするも、答えはNOだった。

 自費で参加した春季キャンプが始まっても、落合は2億5000万円を最低ラインに一歩も譲らず、2月15日に中日キャンプを訪れた川島廣守セ・リーグ会長に、調停を申請。28日に行われた第1回年俸調停委員会の聴聞では、212項目の査定資料を出して数字で攻めた球団に対して、落合は“夢”論で対抗、巨人・クロマティの年俸も引き合いに出して「クロマティが3億円。その働きに自分はそん色ない」と主張した。

 そうした落合の論拠はあらゆる面で否定されることになる。球団の安定経営と今後同じような主張をする選手の出現の歯止めを基底に、調停委員会は、球団提示の2億2000万円を調停額として決定した。落合の主張に対して、(1)落合に次ぐダイエー・門田博光らの年俸と比較しても2億2000万円は十分な評価(2)球団提示額でも他スポーツ選手と比較しても決して劣らない(3)2億2000万円でもプロ野球が多額の報酬を受ける“夢の世界”といえる、という論拠によって退けた。

 3月8日。午前11時から東京・銀座の日本野球機構会議室で第4回の調停委員会がスタートし、吉國一郎コミッショナー、川島セ、原野和夫パ両リーグ会長により構成される調整委は、落合の年俸を球団提示の2億2000万円とすることで合意した。約2時間の最終会議で作り上げられた裁定文を、渋沢良一セ・リーグ事務局長がナゴヤ球場内の球団事務所で落合に手渡し、伊藤球団代表にも裁定結果を渡して調停作業は終了。その後、落合と球団は契約更改に臨み、裁定結果に伴う年俸2億2000万円でサインした。

 球界を揺るがした72日にも及ぶ年俸闘争はこれで決着。100人近い報道陣が詰めかけていたナゴヤ球場で、落合は記者会見を行った。

「渋谷さんから(調停書)をもらいました。金額は2億2000万円。それで今、球団事務所で契約更改を済ませました。2月15日、川島セ・リーグ会長に(申立書)をお渡しして、その時点で契約は完了したと思っていました。たまたまその金額が2億2000万円ということで、この件は終わりにしたいと思いますので、皆さんもそのように」

 時間にするとわずか1分足らずの一方的なコメントで会見は終了。要求額は完全却下されたものの、落合はこうも言っていたという。

「調停を申し出た時点で、ある意味では俺の勝ちかもしれないね」

 野球協約94条を球界に問いかけた今回の大騒動。のちに落合は、この年俸調停は伊藤球団代表との話し合いによって持ち込んだことを告白している。一方、2時間の交渉の終盤に「いつまで経っても平行線だな」と言った落合に対して「調停にかける気だな」と察知したという伊藤代表。最初から年俸調停にかけるための“セレモニー”だったのか――。真相は闇の中だ。

 球界にとっていい前例となったかはさておき、「調停という方法があることを知らなかった」と言う選手が少なからずいたことも確か。調停制度の存在を知らしめた意味はあった。

『よみがえる1990年代のプロ野球 1991年編』より

写真=BBM
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