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プロ野球はみだし録

石毛をして「自分よりひょうきん」と言わしめた男。西武の黄金期にハマった名バイプレーヤー【プロ野球はみだし録】

 

不動の二番打者


黄金時代西武で二番を務めた平野


 1980年代に黄金期へと突入し、90年代に頂点を極めた西武。象徴的な存在といえば秋山幸二清原和博デストラーデの“AKD砲”になるだろうか。このクリーンアップの脅威はV9巨人王貞治長嶋茂雄の“ON砲”をしのぐともいわれ、その破壊力が黄金時代の得点源だったことは確かだ。ただ、四番打者タイプだけを集めても優勝できないことが多々あるのがプロ野球の醍醐味。“AKD砲”の本塁打だけに頼っていたら黄金時代は続かなかっただろう。

 彼らの前に走者を出し、それを少しでも進塁させることが、地味ながらも重要だった。80年代は石毛宏典、90年代に入ると現在は監督を務める辻発彦がリードオフマン。両者とも盗塁の数は2ケタだったが、近年と比べて圧倒的に盗塁が多かった当時としては、決して多いほうの数字ではない。彼らを次の塁へと進めていたのが二番打者。87年オフに中日から移籍してきた平野謙だった。

 中日でも二番打者としてブレーク、82年のリーグ優勝に貢献し、日本シリーズでは奇しくも西武と対戦している平野。中日では“野武士”の一員だったが、ひょうきんな性格で、西武でもムードメーカーの石毛をして「自分よりひょうきん」と言わしめるなど、すぐチームに溶け込んだ。とはいえ、プレーは職人肌。中日では一番を打った86年に48盗塁で盗塁王となったこともあったが、西武では不動の二番打者として移籍1年目から5年連続リーグ最多犠打を決めて、クリーンアップにつないでいる。

 90年には石毛が六番に回って、辻が一番に入るようになったものの、デストラーデが89年シーズン途中に加入してから92年オフに去るまで、二番の平野から五番のデストラーデまでの打順は動かず。西武は90年からリーグ5連覇を成し遂げているが、92年までは3年連続で日本一にもなっていて、この最強の3年間を支えた名バイプレーヤーが平野だったといえそうだ。

 平野の連続リーグ最多犠打も92年まで。それでも外野のゴールデン・グラブ賞には翌93年も選ばれている。そのオフにロッテへ移籍。通算451犠打のうち、西武では254犠打、成功率.897の安定感だった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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