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伊原春樹コラム

「プロは足だけでもメシを食える」高橋慶彦の進むべき道をはっきりと示した古葉竹識さん/伊原春樹コラム

 

月刊誌『ベースボールマガジン』で連載している伊原春樹氏の球界回顧録。2022年2月号では昨年11月に逝去された古葉竹識さんに関してつづってもらった。

選手からは「二重人格」と言われていた古葉さん


古葉監督に手によって主力へと成長した高橋


 古葉竹識さんは広島のスタープレーヤーだった。1963年、長嶋茂雄さん(巨人)と首位打者争いを繰り広げた。残念ながら最後にケガをしてしまいタイトルは逃したが、私の記憶に残っている。私が古葉竹識さんと初めて会ったのは高3時だ。チームメートとともに広島市にある古葉竹識さんの自宅に弟の古葉福生監督に連れていかれ、激励されたことを覚えている。その後、古葉竹識さんは70年に南海へ移籍。翌71年限りで現役引退し、そのまま野村克也監督の下で南海のコーチとなった。私は71年に西鉄入り。オープン戦で南海と対戦したときに初めてプロとして顔を合わせ、「おお、やっと来たか」と喜んでもらったことを思い出す。

 古葉竹識さんは74年、広島に復帰。75年途中に監督となり、そのままチームを初優勝に導き、黄金期を築き上げていった。私は古葉竹識さんと同じユニフォームを着たことがなく、ベンチ内でのことは分からない。だが、父親が芝浦工大スキー部監督を務めていた高橋慶彦とは親しかったから、よく伝え聞いていた。

 慶彦がよく言っていたのは「いい意味で二重人格だった」ということだ。ユニフォームを着ていないときは面倒見がよく、気づかいがあって、誰からも愛される。しかし、それがひとたびユニフォームを着ると負けず嫌いで、勝負に徹する人格になる。古葉竹識さん自身も選手に「二重人格」と言われていたのは知っていたそうだ。あるインタビューではこう答えている。

「僕はショートをしていたし、盗塁をするタイプだったんで、相手投手や守備、走者の動きを観察するのはうまくできるほうだった。いつもベンチの隅に立っていたのは一番よく見えるからです。投手の投げる球も全部当てられましたよ。あそこからだと守備も走者の動きも見える。だから走者がアウトになってベンチに帰ってきたら、『なんだ、あのスタートは』って、手が出たこともよくありました。よく選手に言われていました。ウチの監督は二重人格って。ファンには愛想がいいのに、グラウンドに入ったら何をするか分からない。ただあんまり、オレは殴られた、オレは蹴られたって言うから『そんなことないぞ。触っただけ』って言いますけど(笑)」

「ギャンブル」という言葉は存在しない広島


広島の黄金時代を築いた古葉監督


 慶彦は城西高から入団時、内野守備コーチだった古葉竹識さんから「プロは足だけでもメシを食っていけるんだぞ」とアドバイスを受けたという。周囲のレベルの高さに圧倒され「すぐクビになるかもしれない」と後ろ向きの気持ちになり、何をしていいか分からない状況で示してくれた方向性は大きかった。足を生かすためにはどうすればいいか。とにかく出塁することが先決。そのために打席でゴロを打とうと、正しい方向で努力を重ねた。

 守備では拙守の連続でショート失格。外野に回されたが、古葉竹識さんの監督3年目(77年)、一軍でショートとして使ってもらった。コーチ陣は全員反対したそうだが、「お前がショートとして出てくるか、俺がクビになるか、どちらかだ」と古葉竹識さんは心中覚悟で慶彦を再コンバート。外野には山本浩二さん、エイドリアン・ギャレットライトルがいて、慶彦の出る幕はなかった。内野はベテランの三村敏之さんをセカンドに回して、慶彦がショートでレギュラーを獲得できればチーム力がアップする。古葉竹識さんは非常に計画的にチームをつくっていた。

 山崎隆造正田耕三をスイッチにさせた。慶彦に77年、スイッチ転向を命じ、それが成功したからだろうが、足の速い選手を最大限に生かしたい思いがあったのだろう。右打ちのみだったら起用の機会も狭まってしまう。しかし、スイッチになれば相手投手の右左に関係なく打席に送ることができる。ベンチ入りメンバーは25人と限られているが、そのなかで効率的に選手を起用することにつながった。

 慶彦は三塁にいるとき、内野ゴロでもスタートを切っていた。打者のバットと投球が当たった瞬間、高いバウンドのゴロになるのか、低いバウンドのゴロになるのか。打球速度はどうなのか。そのあたりを瞬時に判断して、「ホームインできる」と思ったらスタート。いわゆる打った瞬間に何でもかんでもホームに突っ込むギャンブルスタートではない。確実に「行ける」と思ってスタートを切る。当然、「無理だ」と判断したときは自重する。機動力野球とは盗塁の数だけではない。古葉竹識さんが率いる広島は全員、走塁に対する意識は高かった。

 すべてのプレーに裏付けがあり、当時の広島には「ギャンブル」という言葉は存在しなかった。例えば攻撃においてセーフティーバントやスクイズ、ヒットエンドラン、盗塁といった策があって、場合によってはそれらが奇襲と言われることがある。だが、古葉竹識さんの野球にはその2文字はない。セーフティーバントにしても、確信があって、打者は試みる。

 それが可能になったのも、普段の心がけだろう。練習中から本番と同じように臨み、実戦に備える。その積み重ねしかない。古葉竹識さんは「一つひとつのプレーを大切にすること」を常に説いていたそうだが、練習からそういったことを意識して、当時の選手は常に緊張感を持っていた。だから、広島は黄金時代を築くことができたのだ。

写真=BBM
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