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逆転野球人生

防御率54.00、交通事故で罰金700万円、クビ寸前の左腕が最年長最多勝に…「アイアン・ホーク」下柳剛【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

ひたすら投げ続けて


ダイエー時代の下柳


「練習で格好悪いなんてない。試合で打たれるのが一番格好悪いんだ」

 その左腕は、ベテランになっても試合前の打撃投手を務めることを厭わなかった。打者との感覚をつかむためには、これほど適した練習法はない。なのに、「カッコ悪いから」とやりたがらない投手も多い。彼は、そんなつまらないプライドなんてとっくに捨てていた。下柳剛は、ひたすら投げ続けることで這い上がったからだ。

 少年時代は巨人ファンで山本功児とサウスポー新浦壽夫に憧れた、ファースト兼控えピッチャー。中学総体の長崎市決勝でヒジの軟骨を骨折するも、瓊浦高校の2年春、バッティングピッチャーとして投げたところ、監督から投手として評価されたことにより、人生が変わった。打撃投手はいわば、彼の原点でもあった。卒業後進学した八幡大学を1年で中退するも、社会人の新日鉄君津のテストを受けて入部。大学を辞めて友達のオヤジが経営する鉄工所のバイトと夜遊びという生活の中でも、やはり己の人生を懸けるのは野球しかないと気付いたのである。これといった実績もなく、期待されて入った選手でもない。ならば、自分には猛練習しかないと、全体練習後に10キロ以上を走り、自主的に石段を駈け上がって、激しいウエート・トレーニングで自らを追い込んだ。

「社会人時代の3年間は、お盆も正月も一日も休んだことなかった。一年、365日、練習していましたからね。監督やコーチからも、「もうきょうは、そのへんでやめろ」といわれるくらい、すごい練習してたんですよ」(週刊ベースボール94年6月27日号)

 今となっては、阪神時代のイメージが強いかもしれないが、そのプロのキャリアはダイエーホークスで始まっている。90年ドラフト4位で指名されるも、当初は都市対抗で1勝を挙げて恩返ししてからと、プロ入り拒否のスタンスも周囲の説得もあり翻意。22歳の即戦力左腕と期待されたが、プロ1年目の夏、デビュー戦の近鉄戦でストライクが入らず、3分の2回で被安打1、4四球、自責点4で「防御率54.00」という屈辱的なルーキーイヤーの成績だった。2年目はキャンプ地のハワイへ向かう機中で、航空会社の乗客サービスイベントとして行われた10問のハワイクイズに全問正解。この大当たりを聞いた首脳陣が、本業以外で運を使い果たして「こりゃ、危ないよ」なんて心配した通りに2年目は登板なし。そして、このままいったら間違いなくクビだと覚悟を決めた勝負の3年目、新監督に根本陸夫が就任する。

 プロ入り前から面識があり、西武の管理部長時代に下柳の体の強さに注目していた根本は、このまま何もせず終わるのか、それともやるだけやって故郷に帰るのとどっちがいいか下柳に問いかける。それはまさに、プロ野球選手として、君たちはどう生きるかという問いでもあった。そして、根本は「下柳クラスは一軍のマウンドで投げてナンボの投手」と、とにかく球数を投げさせるのだ。試合前のフリー打撃、そのあとのゲームで登板、さらに試合後にブルペンで投げることもあった。自然と投げ続けている内に投げるコツが分かってくる。フリー打撃で楽にストライクが放れるので、次第に試合でも不安がなくなったという。

大きかった事故の代償


 権藤博投手コーチの現役時代の「権藤、権藤、雨、権藤」をもじって、週べで「下柳、下柳、雨、下柳」と報じられる6連投もなんのその。どれだけフォアボールを出そうが、監督に「こんなぐらいで代えては伸びませんよ」と進言してくれる権藤に心酔して、球場の行き帰りの運転手を買って出るほどだった。あるときは、中継ぎ登板した翌日に先発起用と場面問わずマウンドへ。クタクタになり部屋に帰ると何かをやる体力も残っておらず、ひたすら寝るだけ。床屋に行くのも面倒で、無精ヒゲや長髪がやがてトレードマークになっていく。それでも「仕事がある、ということは有り難いことです。ボクは使われないより、使われた方がいいです」と下柳は投げ続けた。己の運命を変えてくれた根本監督について、前述の週べのインタビューでこう語っている。

「ボクの場合、周りの人からよく“投げすぎ”とかいわれますけど、(根本は)連投した次の日はしっかり休ませてくれますからね。周りが見てくれるより、よっぽどボクのことを見てくれるし、心配してくれてる。ベンチ入りの日でも、“今日は投げなくていい”と上がりにしてくれたり……。だからこそ、やらなきゃいけないという気になるんですよ」

 プロ初勝利や初セーブを挙げた3年目の93年は50試合登板。94年はリーグ最多の62試合に投げ、11勝5敗4セーブ、防御率4.51。選手名鑑の好きなタイプにはトレンディ女優やアイドルではなく、「名取裕子」をあげる無頼派サウスポーは、初のオールスターにも選出され、ホークスの鉄腕についたニックネームは“アイアン・ホーク”(鉄の鷹)。当然、95年から王貞治監督が就任したチームでもブルペンの柱を期待されるが、思いもよらぬアクシデントが下柳を襲う。開幕早々の95年4月19日深夜に交通事故を起こしてしまうのだ。飲酒運転でガードレールに激突。鼻骨骨折と左前腕部挫傷という重傷で戦線離脱してしまう。なお、罰金700万円(500万円の罰金と迷惑料200万円)はパ・リーグ史上最高額のペナルティーでもあった。顔にボルトが入ったまま復帰するも、流動食のみの入院生活で13キロも痩せてしまい精彩を欠き、オリックス戦でベンチからイチローに「おまえの出ているCMの車をくれ」と野次ったら、「下柳さん、やっぱりエアバッグ付きですか」とやり返された。

 この事故の代償は大きかった。なんとあれだけチームに貢献したアイアン・ホークは、あっさりオフに放出されてしまうのだ。ダイエー側が下柳と安田秀之日本ハム武田一浩松田慎司の2対2の交換トレードである。「ゴチャゴチャ言わんとチームを出すなら出してくれ。どうせケガするなら野球でしたかった」と往年の前田日明ばりのコメントを残し、向かった新天地の入団発表の席で、上田利治監督からは「下柳には“東京では車に気をつけろ”と言ったんや」と先制口撃。いわば、問題を起こしてのリストラに近い移籍劇である。だが、男の人生なんて一寸先はどうなるか分からない――。

リリーバーの地位向上に貢献


96年から02年まで日本ハムでプレーした


「ボクの野球生活は、回り道したようで、全部、実になってますね。高校時代の走り込みや社会人のウエート。そしてバイト時代の今に見てろ、というハングリーな気持ちも(笑)」

 実は大学中退直後にケジメをつけるため、大洋と日本ハムの入団テストを申し込むも、中退した年はテストを受けられないと聞いて断念した因縁があった。紆余曲折あり辿り着いた東京ドーム。根本と同じく上田監督も「アイツは投げなければダメなタイプ。投げてこそ下柳なんや」と連日マウンドへ送った。97年には216打席連続無三振のイチローから、新球シュートで三振を奪い記録阻止。65試合登板で、規定投球回をゆうに超える147回と投げまくった。チーム2位の9勝、勝率.692はリーグ3位、奪三振率8.33はリーグトップという獅子奮迅の投げっぷりに、球団側も「前例がないので査定のしようがない」とお手上げ状態。結局、3度交渉を重ね、日本ハム史上最高の4900万円アップの年俸1億500万円+出来高の2年契約でサインした。

「先発はカッコええよ。抑えも勝ち試合に投げればいい。でも、中継ぎは勝っても負けても投げる。いつ出番が来るか分からない。消耗が激しく地味。目立たない。それでケガで投げられなくなってクビになったらたまらない」

 99年オフには、中継ぎ投手では史上最高額の年俸1億3300万円に到達。気が付けば下柳は、当時まだ評価の低かったリリーバーの地位向上、年俸ベースアップの役割を担うようになっていた。2000年には格闘家の桜庭和志との合同自主トレ(なお高田延彦とは飲み仲間だった)や、日本人選手として初めての代理人交渉も話題に。この年、前半はリリーフで不振を極めるも、夏場から先発に回り、10年目のプロ初完封を含む後半戦は7勝2敗と持ち直す。翌01年は21試合すべて先発登板。アイアン・ホークは、30代で先発投手として生きることになる。

 豪快そうに見えて、タレントのダンカンから「日本ハム球団ですけど、本日、下柳選手と横浜(当時)のデニー友利投手のトレードが決まりました」なんてイタズラ電話を真に受け、律儀に同僚選手や球団関係者へ別れの連絡をした素直な男。アルコールは最もカロリーの少ない焼酎を好み、いも焼酎専門。好奇心旺盛で自らカイロプラクティックに通い、専属トレーナーと相談して体のケアを心がけ、球団が若手選手向けのメンタル面アドバイスで大学教授を招けば、年齢的には対象外の下柳が最も食いついて質問攻めにしたという。

星野阪神では優勝の立役者に


03年に中村[右]とともに阪神へ。4年連続2ケタ勝利を挙げるなど先発ローテで活躍した


 やがて、若い頃はスピードガンと戦っていた暴れ馬が、スピードを捨ててツーシームやシュート、スライダーといった横の変化を駆使する繊細な技巧派へ転身を果たす。02年はペナント終盤に投手コーチから「トレード要員だから他球団にアピールしてこい」と檄を飛ばされて手にした2勝でクビをつなぎ、オフに今度は中村豊と共に、山田勝彦伊達昌司とのトレードで阪神タイガースへ移籍。プロ13年目にして初のセ・リーグだったが、移籍初年度の03年に10勝を挙げ、星野阪神のVに貢献。05年には15勝で、37歳の史上最年長で最多勝のタイトルを獲得した。

 阪神時代は4年連続二桁勝利、楽天在籍時の12年に44歳で現役引退するまでに通算627登板、129勝を記録したアイアン・ホーク。根性とロジカルさを併せ持ち、いつ壊れてもいいとひたすら投げ込んで這い上がった鉄腕に対して、恩師の権藤は下柳の著書『ボディ・ブレイン』(水王舎)の中で、こんなメッセージを送っている。

「普通の人だったら潰れているでしょう。それをやっても潰れず四十過ぎても投げられたというのは、シモの先天的な体力に負うものでした。アメリカなんかじゃクレイジーですよ。どっちが正しいかと言われたら、あれは正しい方法じゃないと言うしかないです。それでも潰れない強じんな体力と、それに耐えうる精神的な強さ。片方が潰れても絶対持ちませんから。だからそういう点でもシモは本当に立派。すごいですね」
 
文=中溝康隆 写真=BBM
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