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愛すべき助っ人たち

「お金のためにプレーしていたが…」ファンと一体化した広島の“ドクター”ホプキンス【愛すべき助っ人たち】

 

「僕にとってヒロシマは特別な場所」


広島のVの使者となったホプキンス


 これほどまでにファンと密着した助っ人はいなかっただろう。将来の夢は医者になること。それには泣いても笑ってもカネはかかる。2015年のインタビューで「確かに、お金のためにプレーしていたが……」と語るも、そんな助っ人の夢を市民は後押しして、助っ人は市民の夢をかなえた。「いま誰(市民)のためにプレーしているか明確だった」と続けたのが広島のゲイル・ホプキンスだ。

 2リーグ制となった1950年に異色の市民球団としてプロ野球に参加した広島。優勝は市民の悲願だった。75年にロイヤルズでもチームメートだったリッチー・シェインブラム(シェーン)とともに来日、入団。その75年に広島は初のリーグ優勝を果たすのだが、そのことについては、この連載でシェーンを紹介した際に詳しい。

 一方、ホプキンスは時間があるときには広島大の医学部に通っている姿が見られた。これも特別な計らいだったという。だからといって野球をサボっていたわけではない。33本塁打、91打点と選手としても結果を残している。リーグ優勝が見えてきた終盤にファンが荒れたときには、ターゲットとなった中日ナインを守るべく、暴徒化したファンの前にシェーンとともに立ちふさがった。敬虔なクリスチャンでもあり、愛するファンを加害者にするわけにはいかないという思いもあっただろう。中日ナインからも大島康徳ら10人ほどの選手が全治1週間から10日の負傷をしているから、ホプキンスたちも命懸けだったはずだ。試合でも見られないほど顔を紅潮させていた。

 少年時代、初めて読書感想文を書いたのが『ヒロシマ』という本で、「原爆が落ちたあとの写真が、たくさんあった。僕にとってヒロシマは、ずっと特別な場所だった」というホプキンス。冒頭で紹介したインタビューでは「広島には不思議な縁を感じる。(1975年に)広島市民と共有した時間、歓喜、優勝。どれも私にとって、かけがえのない財産です」とも語っている。シェーンとともに2年で帰国する予定だったが、1年だけ南海でプレーして、77年オフに帰国。81年に整形外科医として開業している。

写真=BBM
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