週刊ベースボールONLINE

日本球界 歴代衝撃の乱闘劇TOP10

 

最近ではほとんど見られないが、球史をひもとけば、日本球界も幾度となく大乱闘を繰り返してきた歴史がある。今回は歴代の乱闘劇をインパクト順に10選んで紹介してみたい。(編集部選定。危ないですからお子様はマネしないように……)

1位 甲子園が震えた!バッキー殴打事件 1968年9月18日阪神 - 巨人戦[甲子園]


バッキーが荒川にパンチを浴びせた瞬間、硬い額部分に当たったのが不運だった


 それは激しい優勝争いの中で起こった。甲子園での阪神 - 巨人の首位攻防3連戦。まず9月17日には阪神・江夏豊がシーズン奪三振のタイ記録と新記録をいずれも王貞治からマークする“神技”を見せ、さらに延長12回、自らのサヨナラ打で勝利。翌18日はダブルヘッダーだったが、第1試合はやはりサヨナラ勝ち。首位巨人とゲーム差なしとし、流れは完全に阪神に来ていた。しかし、第2試合は荒れる。先発のバッキーが大乱調。4回表には4点を奪われ、二死二塁で迎えたのが、1回に死球を食らっている王だった。ここで1球目が頭近く、2球目がヒザ元への暴投。明らかな“ビーンボール”だった。王はムッとした表情でマウンドに向かい、バッキーと言葉を交わし、打席に戻りかけたが、血相を変えた、王の師匠でもある巨人の荒川博コーチがマウンドへ。そのままバッキーに蹴りを入れ、バッキーも右手でカウンターパンチ。そのまま両軍入り乱れての大乱闘となった。

 バッキー、荒川退場の後、マウンドには権藤正利。しかし、ここでなんと権藤の球が王の頭部に。王はタンカで運ばれ、病院に向かい、グラウンドでは再び乱闘だ。ファンも次々グラウンドに降り、殺気立った雰囲気となった。

 試合再開後、打席に入ったのが長嶋茂雄。ここで見事に試合を決定づけるホームラン。そのまま試合は10対2で巨人が大勝した。64年には29勝を挙げ、優勝の原動力になったバッキーは、荒川にパンチを見舞った際、右親指付け根を骨折。結局、この年はそのまま登板はなく、翌年には近鉄に移籍したが、1勝も挙げることができず引退した。

2位 混乱の平和台事件! 1952年7月16日西鉄 - 毎日戦[平和台]


大混乱となった平和台球場。刃物を持った暴力団関係者もいたというから危なかった


 試合開始は15時予定だったが、雨で遅れ、16時55分プレーボール。当時、平和台球場には照明施設がなく、いくら日が長い時期とはいえ、とても最後まで試合ができるとは思えなかった。しかも雨のため2度の中断。4回裏の西鉄(現西武)の攻撃が始まったのが18時46分だった。この時点で西鉄が5対4とリード。すでに薄暗くなっており、5回表が終わり、試合が成立した時点で日没コールドが濃厚となった。

 しかし、ここで毎日(現ロッテ)がノーゲーム狙いの露骨な遅延行為に出る。土井垣武捕手はなかなかサインを出さず、内野手は、やたらとタイムを取ってスパイクの紐を結び直し、投手はけん制を繰り返す。西鉄ナイン、客席のファンが「早くしろ!」と罵声を浴びせたが、まったく気にする様子はない。西鉄打線は4点を追加したが、結局19時30分になって球審が「ノーゲーム」を宣告した。

 これを合図にするかのように観客が一気にグラウンドに乱入。毎日の選手と審判を追い回す。ついに別当薫、土井垣がつかまるが、これを身を挺して守ったのが、西鉄の大下弘野口正明だった。2人も暴行を受け、ケガをしたが、決して逃げなかった。2人は後日、パ・リーグから5000円を贈られている。

 騒ぎはなかなか収束せず、最後、毎日の選手は300人の警官に守られ、球場を出たが、宿舎も夜遅くまで怒り心頭のファンに囲まれ、しばらく福岡市警で待機するしかなかったという。毎日の湯浅禎夫総監督は責任を取って辞任。遅延行為は高くついた。

3位 太平洋 - ロッテの遺恨劇場! 1973-74年


ほえるファンにバットを振り上げ威かくする金田監督。まさに異常事態だった


 ロッテ・金田正一監督と平和台のライオンズファンは、激しいヤジに対し、金田監督がにらみ付けたり、言い返したりとトラブルはあったが、これは金田監督なりのパフォーマンスでもあった。しかし73年5月、太平洋が記者会見で「金田監督の九州のファンは田舎者でマナーを知らないという発言に厳重に抗議する」と発表し、以後“因縁試合”に発展(太平洋側の“演出”もあったと言われる)。直後の6月1日、平和台での対決では試合後に暴徒が球場を取り囲み、ロッテナインは囚人護送車で宿舎に戻った。翌年4月にも川崎の試合で本塁でのクロスプレーで大モメ。ただ、太平洋が、このときの写真を平和台でのロッテ戦に向けた宣伝ポスターに使ったことで警察が激怒。事態も急速に収まった。

4位 ガルベスが審判に全力投球! 1998年7月31日阪神 - 巨人戦[甲子園]


ガルベスに対し巨人は無期限出場停止処分と4000万円の罰金。ただ翌年には復帰している


 その日、味方守備のミス、微妙なジャッジが相次ぎ、巨人先発のガルベスは立ち上がりからイライラしっぱなし。捕手のサインに首を振りまくり、ストレートばかり投げて打ち込まれた。さらに0対5と敗色濃厚となった6回だった。坪井智哉に対し1-2から投げた内角球をボールとジャッジされ、完全に“プッツン”。その後、ハーフスピードの無気力ボールを投げ、ホームランを打たれた。交代を告げられても球審にわめき続け、ベンチに戻ろうとしない。長嶋茂雄監督が強引にユニフォームを引っ張り、ようやくおとなしくなったが、戻る途中、なんと手に持っていた球を審判に向かって投げる。もちろん、狙ったとは思えないが、握りもちゃんとしているし、全力投球のクセの舌まで出ていた。

5位 広島初優勝を前にファンが暴動 1975年9月10日広島 - 中日戦[広島市民]


ファンを必死に止めるホプキンス中日の選手は命の危険も感じたという


 初優勝に向け、燃えに燃えていた広島と3位中日の対戦。この年、幾度となくトラブルがあったカードでもある。試合は9回裏、ホームでのクロスプレーで乱闘騒ぎもあったが、広島が4対5で敗戦。そして本当の修羅場は試合終了からだった。広島ファンが次々乱入し、中日の選手を襲い、殴る蹴るの暴挙。これを必死に抑えたのが、ホプキンス、シェーンの広島の外国人選手。体を張って中日選手とファンの間に入り、選手たちがベンチ裏に逃げるのを助けた。その後も球場正面に2000人以上が集まり、大混乱。翌11日の試合は広島側が「試合の安全に自信が持てない」と中止に。セ・リーグの鈴木龍二会長が12日の試合前に「正しい応援をしてほしい」と異例の呼びかけを行った。

6位 デービスがマウンド上で東尾殴打! 1986年6月13日西武 - 近鉄戦[西武]


デービスは88年大麻取締法違反で逮捕。


 6回表、一死から西武・東尾修シュートが近鉄の四番・デービスのヒジに当たった。次の瞬間、デービスが猛然とダッシュ。東尾に4発のパンチとキックを浴びせ、そのまま両軍入り乱れての乱闘になった。

 デービス退場の後、東尾は続投し、完投勝利を飾ったが、顔面打撲、右足首ねんざ、右ヒザ内側裂傷と多くの傷を負った、しかし試合後デービスは「どんな処分も受けるが反省はしない。あんなコントロールのいい投手がどうしてあんなに死球を出すんだ。俺にも家族がいる」とまくし立て、“死球王”東尾にいら立っていた他球団が、それに同調するようなコメントをしたことで事態はおかしな方向に行くことになってしまった。東尾はこの年、12勝、翌年には15勝を挙げたが、内角攻めは凄みを失った。

7位 クロマティ大暴走事件! 1987年6月11日巨人 - 中日戦[熊本藤崎台]


宮下はその後もクロマティの内角に厳しい球を投げ続けたという


 ベースにかぶさるようなクラウチングフォームが特徴だった巨人・クロマティ。当然投手は内角を攻めて体を起こそうとしたが、そのたび威かくするようにほえた。ライバル中日の中継ぎ右腕・宮下昌己は、ひそかに「このままなめられてたまるか。ほかの投手のためにもやらないかん」と燃えていたという。この日は先発・杉本正の後、2番手で投げ、7回、クロマティと2度目の対戦となった(最初は三振)。そして宮下の投じた1球は狙いどおり?クロマティの背中に。ただ、「向かってくるとは思ったけど、マウンドまでは来ず、途中で一塁に行くかと思った(宮下)」クロマティが目の前に来て右ストレートが顔面に。すぐ中日ベンチから星野仙一監督が飛び出し、大乱闘となった。

8位 阪神コーチが審判に暴行! 1982年8月31日大洋 - 阪神戦[横浜]


全国中継されていたことで多くの野球ファンが目撃。衝撃を受けた


 7回表、走者を三塁に置いて阪神・藤田平は大洋の三塁手・石橋貢の頭上に高いフライを打ち上げた。石橋は風に惑わされ、これを捕球できず、ボールはファウルグラウンドを転々(フェアゾーンに落ちたようにも見えた)。塁審のファウルの判定に対し、阪神は「石橋のグラブに触れているフェアだ」と猛抗議。一塁コーチの島野育夫が塁審に暴行、ここに柴田猛コーチも加わり、止めようとした球審も羽交い絞めにして胸を蹴り上げた。危険を感じた審判団は一度、引き揚げ、没収試合も考えたが、なんとか再開。これに激怒した鈴木龍二セ・リーグ会長は、後日、2コーチに無期限公式戦出場停止(205日後に解除)、制裁金10万円の処分。横浜地検も傷害罪などで略式起訴した。

9位 優勝決定後、甲子園が修羅場に! 1973年10月22日阪神 - 巨人戦[甲子園]


阪神・金田正泰監督もマイクを持ってファンに謝罪したが…


 阪神は勝てば優勝の中日球場での中日戦を落とし、最終戦で巨人との直接対決を迎えた。どちらも勝てば優勝の大一番だ。大いに盛り上がった甲子園の阪神ファンだったが、試合はワンサイドになった。0対9で阪神が敗れた瞬間、いっせいに巨人ナインがベンチに走る。胴上げのためではない。逃げるためだ。試合中から罵声が飛びかい、9回になると殺気立ったファンがフェンスをよじ登り、タイミングをうかがっていた。そして試合終了と同時に次々乱入。当時、乱入は珍しいことではなかったが、この日は規模が違った。3000人とも言われる観客が下りたち、グラウンドは無法地帯に。9年連続のリーグ優勝を成し遂げた巨人ナインはベンチ裏に逃げ込み、逃げ遅れた選手が殴られた。

10位 バットを投げた!清原事件 1989年9月23日西武 - ロッテ戦(西武)


タイミングばっちりのヒップアタック。平沼のダメージは相当だった


 この日、西武・清原和博は絶好調。満塁本塁打を放ち、チームは7点のリードを奪っていた。4回裏二死二、三塁の場面で打席に入った際、清原はマウンド上のロッテ・平沼定晴を見て「狙っているな」と確信したという。内角攻めが増え、イライラしていた矢先でもある。その初球、インコースのストレートが清原の左ヒジを直撃。激怒した清原はバットを投げつけ、マウンドに突進すると、プロレスラーばりのヒップアタックを食らわした。そこから両軍大乱闘。清原は暴力行為で退場となり、制裁金30万円、出場停止2日間の処分。これで入団1年目から続いていた連続試合出場もストップした。平沼は左鎖骨部、左大腿部挫傷で全治2週間。清原は翌日、謝罪した。

写真=BBM

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング