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野村克也が語る「高校野球の思い出」

 

峰山高野球部時代の筆者/写真=BBM


プロでも練習中の水飲みはご法度だった


 今の時代は、試合中も水分補給が当たり前。しかしご存じのように、野球界では長らく「水を飲むな」という指導がはびこっていた。

 思い出すのは、南海ホークスの二軍時代。グラウンドでの練習が終わり、二軍監督の「よし、今日はここまで。ご苦労さん」のひと言で、選手はみな一直線、ライト後方に向かって走り出す。

 そこにあるのは、外野にホースで水を撒くための、水道の蛇口。プロになっても、「練習中は、水を飲んじゃいかん」という時代である。ノドが渇いて、渇いて仕方ない。

 最後の力(?)を振り絞り、蛇口に向かって全力疾走だ。すると後ろから、コーチの怒鳴り声。

「お前ら、まだそんな元気があるのか! もういっぺん、練習をやり直しだ!!」

 1秒でも早く水を飲みたいが、そのために練習をやり直しさせられてはたまらない。みな、極力しんどそうに、のろのろ蛇口を目指すようになった。

 それにしても、あの「水を飲むな」という指導は、いったいどこから来たのだろう。これには、諸説あるようだ。

 中でも「戦時中の軍隊経験が、誤った形で伝えられた」という一説は、さもありなん。真偽のほどは定かでないが、その説を信じたくなるほど、われわれの時代の指導者は軍隊経験者ばかり。言葉の端々に、軍隊用語が出てきたものだ。

 それにしても、時代は変わったな。今では、高校野球の地方大会までテレビやインターネットで中継されている。私のころは、甲子園での全国大会もラジオ中継のみ。高校野球はおろか、テレビ放送自体、NHKによる本放送が始まったのは1953年2月。私が高校2年のときだ。しかし、当時はテレビ(受信機)の値段がべらぼうに高く、一般家庭に普及するのは、まだまだ先のことだった。

 初めてテレビを見たときは、非常に感激した。映画館に行かなくても、暗くしなくても、毎日映画を見ることができるのだ。「本当にすごい時代がきたな……」と思ったものだった。

野球部存続をかけた奮闘も今は良い思い出


 話が野球から、どんどんずれていってしまった。

 さて、読者の方から高校野球に関する質問をいただいた。

「夏の高校野球地方大会が始まりました。ノムさんの、高校時代の思い出を教えてください」(福岡県・Nさん)

 子どものころから私の夢は、将来、プロ野球選手になることだった。それには甲子園で目立った活躍をするのが一番の近道なのだが、私の場合、野球のために進学先を選ぶことはできなかった。そもそも母子家庭というわが家の事情から、母は私の高校進学に反対していたのだ。3歳上の兄が、「高校くらいは出ておかないと」と言って母を説得し、地元・峰山高校に行かせてくれた。

 さっそく野球部に入ったが、正直存分に野球のできる環境ではなかった。部員は3学年合わせて12、13人。他競技と1つのグラウンドを共有していたから、日ごろ硬球を思い切り打つわけにはいかなかった。

 入部当初は3年生のキャッチャーがいたため、私はショートに回された。おそらくバッティングを買われた部分もあったのだろう。ショートの守備のほうは、さっぱりである。

 わが故郷・網野町は京都府の北部、日本海に面しており、雨の多い地域だった。今晴れたと思うと、30分もすると土砂降りの雨が降り始める。そんな天気を丹後弁で「うらにし」と呼んだ。

 その「うらにし」の季節になると、グラウンドはあっという間に使えなくなった。水はけが悪く、ひどい雨に降られると、1週間はグラウンドが使えない。もちろん室内練習場などないから、練習は中止。とりあえず体を動かそうと、体育館でバレーやバスケットボールをした。

 そんな弱小運動部だったせいか、部員はガラも成績も悪いのが多かった。そして、ついには教員会議で「野球部つぶし」が議題にのぼった。私はその中心にいた生徒指導の先生を味方につけるべく、先生と親しくなれる生徒会長の選挙に打って出た。周囲の生徒たちを半ば脅して投票させ、なんとか当選。先生に野球の魅力を分かってもらうため、休日われわれの試合に誘った。

 当時は前述したように、テレビも何もない時代。町のグラウンドで行われる野球は、庶民の娯楽の一つだった。町の人たちが野球に親しみ盛り上がるさまを見て、先生はすっかり考えを変えた。存続の決まった野球部の顧問に先生が就任、私は無事3年間、高校野球を全うすることができたのだ。

 試合より、そんな思い出のほうが、大きなウエートを占めている。

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