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裏方が見たジャイアンツ

香坂英典コラム 第66回 怪物・江川卓の美学(前編)

 

1973年夏の甲子園、作新学院高のエース・江川に対し、柳川商高はバスターで対抗した


なんてきれいな!


 1973年、全国高等学校野球選手権、夏の甲子園大会。作新学院高校のエース・江川卓が甲子園のマウンドで躍動していた。当時、僕はその試合の模様をテレビの前で食い入るように見ていた。僕は埼玉県立川越工業高校の野球部1年生、テレビではあるが、初めて怪物・江川の投球を目の当たりにする。

 対戦する柳川商業高校の打者たちはバットを短く持ってバントの構えからヒッティングをする『バスター』の構えをして、江川さんの速球に対応しようとする作戦を取っていた。しかし、それでも打者のほとんどはその球速についていけず、ファウルするのが精いっぱいという感じの凡退を繰り返す。その大きな高校生離れした体を十分に使った豪快なフォームは、今まで僕が見たどの高校生の投手よりも数倍大きく見え、テレビ画面から飛び出てきてしまいそうな錯覚に襲われた。

 僕は、次の日の練習から江川さんの投球フォームの真似をし、ボールを投げた。左足を高く上げ、左足のつま先がいちばん高い位置に上がった時点で、同時に今度は右足の軸足のかかとを少し上げる。下半身のアクションは大きくなったが、そのときにためた力を指先のボールに伝えようとしながら腕を振ると、なかなか上半身と下半身とのタイミングが合わず、そして、下半身がどうしてもふらついてしまい、ボールは捕手のミットとは全然違う、ミットの遥(はる)か高い方向へ抜けて飛んでいった。当然速い球などにはならず、当時の172cm、体重62、63kgの僕の貧弱な体では、その豪快なフォームには足腰が弱過ぎてついていけないということが分かった。

 それでも、僕の江川卓への大きな興味は揺るがず、毎日、怪物・江川をイメージし、ボールを投げた。当時の僕は地元の埼玉新聞などには「非凡な投手」と言われるくらいの表現で書かれたものであったが、ストライクが入らないノーコン投手でもあった。球はそこそこ速かったとは思うが、その球の行方はボールに聞いてもらったほうが分かりやすいと言ったほうが良かった。そんな高校時代の江川さんにあこがれていたころの自分が懐かしい……。

 あこがれの大投手はやがて法政大学に進学、僕は中央大学に進学した。そして、僕が大学2年生のときに法政大のグラウンドに招かれた春のオープン戦……。もしかすると江川が見られるかも……(完全なファン発想……笑)。僕はそれだけでワクワクした。

 だが、法政大の先発は江川さんではなく、僕と同じ埼玉県の熊谷商業高校出身、左腕・鎗田(鎗田英男)さんであり、江川さんは登板しないということがすぐ判明する。鎗田さんは高校時代、埼玉県ナンバーワンの左腕であり、法政大では・・・

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